1.村の成り立ち

72 ~ 72 / 95ページ
 二見という地名はいつごろからあったのであろうか。奈良時代の初め、聖武天皇の天平3年(731)の『住吉大社神代』に神社領として、「東を限る大久保尻の限り、南を限る海棹のおよぶ際、西を限る歌見江尻の限り、北を限る大路」とある。また、平安時代の説話集『今昔物語』にも「印南の郡、歌見の浦」と記されている。さらに、安土桃山時代の『慶長播磨国絵図』には、加古郡東二見村、西二見村、福里村とある。現在のところ、室町時代までは「歌見」、その後は「二見」と呼ばれていたと考えられている。
 では、二見に人々が住みついたのはいつごろからであろうか。文献上、奈良時代の神亀3年(726)の秋、聖武天皇が播磨の邑美頓宮に行幸した時、明石・加古両郡界の七十才以上の住民に米一石ずつ賜ったという記述がある。その後、平安時代に西二見村の極楽寺に説話が伝わっている。従って、おそらく奈良時代から二見に人々が住み始めたと考えられている。