三義人

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 「お願いでございます。東二見村の民がうえて死ぬかどうかの瀬戸ぎわ。なにとぞ、この訴え、お取りあげください」―安永2年(1773)11月17日のこと、江戸城を下ってきた老中松平右近将監のカゴわきに、訴状をかかげた三人の男が決死の表情でかけより、土下座しました。「無礼者、下がれ」という供の侍の声も耳にはいらないかのように、額を地面にすりつけ、なおも訴状をさし出しています。右近は三人を屋敷へ連れ帰りました。
 この三人は東二見村庄屋孫左衛門の弟弥惣兵衛、同村の百姓、漁師総代の市郎右衛門、伊左衛門。訴状の内容は、宝暦13年(1763)隣の林村との間に起きた漁場をめぐる裁判に負け、11の漁場を失ってから、東二見の漁師は働き場がなくなった。このままでは、おかみへの運上金(税金)も払えないばかりか、生きていけない。どうか元の漁場で働けるようにしてほしい―というものでした。宝暦の訴訟は、東二見の漁師が鹿の瀬でタコツボ漁を始めたことが発端で、林村の漁師がタコツボの元なわを切って、両村の論争となり、大坂の奉行所で4年ごしの裁判の結果、東二見はそれまでの漁場13ヶ所のうち2ヶ所でしか漁ができなくなったのです。
 命の綱を切られたと同然の東二見村は、タコや魚が取れないため、あきないもできず、村人たちは食べるものもないありさま。弥惣兵衛ら三人は、この苦しみから村人を救うため、江戸へ出て勘定奉行に願い出たのですが取り上げられません。このまま村へ帰ったら、みんなはいよいようえ死にするだろう。
 どうせ死ぬなら、切られてよいから、老中にお願いしよう。そう思いつめて、松平右近のカゴを目ざして訴えたのでした。三人の決死の思いが通じたのか、5年後の安永7年(1778)事件はようやく解決。東二見村の漁師は沖に出て漁ができるようになり、村は救われました。村人たちは三人を安永三義人とたたえ、ながく祭ったということです。
 安永三義人—弥惣兵衛、市郎右衛門、伊左衛門は、明石市二見町東二見の臨済宗妙心寺派瑞応寺に葬られている。三人の戒名をきざんだ地蔵が建立され、「西向き地蔵」と呼ばれている。この名の由来は、江戸に出た三人が、毎日瑞応寺の方角に手を合わせ、大願成就を祈ったことからつけられたという。
 瑞応寺では毎年8月23日の地蔵盆の日、亡くなった人々の冥福を祈って施餓鬼を行うが、このとき東二見の漁業関係者が集まって、三義人の徳をしのび、最初に弥惣兵衛ら三人に供養をするならわしになっている。二百年を経てなお、三義人は東二見の人々の心に生き続けているといえるだろう。
『あかし昔ばなし』 神戸新聞明石総局1983年刊より