二見の干しダコ

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 豊臣秀吉の一代記『太閤記』に、秀吉が三木城を落として播磨を平定した二年後の天正9年(1581)12月22日に安土城に主君・織田信長を訪れ、数々の歳暮の品を届けた。その手土産の中身は「二見蛸500張、明石の干鯛1000匹、明石縮1000斤、姫路米3000俵、赤穂塩1000石、加古川鮎1100連など」とあり、この、蛸は干しダコといわれている。戦国末期には明石のタコは全国に知られ、干しダコも作られていたようである。また、江戸時代の『日本山海名産図会』『日本山海名物図会』では「章魚(たこ)」の項に「播州明石、たこの名物也」とあり、焼き物の蛸壺漁が紹介されている。なお、『日本山海名産図会』の「飯蛸(いいだこ)」の項に「播州高砂を名産とす」とあり、巻貝の赤螺(あかにし)を蛸壷にして漁をすることが絵図入りで記されている。

 この干しダコ作りの話を聞こうと、25年前に聞き取りをした二見町東二見の大西英美子さんに電話をしたところ、電話には娘さんの山部賀子さん(49)が出られ「母は今年(2015)6月に亡くなりました」とのことだった。一昨年、テレビのニュースで、夏の風物詩として干しダコを作っている英美子さんの元気な姿を見ていただけに驚いた。癌だったそうである。その跡を、賀子さんらが受け継いでいるということで、取材を申し入れたが、今年は既に作り終わったとのことだった。とりあえず、一度、賀子さんに会って、話を聞くことにした。

竹串をタスキ掛けにかける英美子さん


 干しダコ作りの名人、大西英美子さんと、タコ採り名人の漁師、幸雄さん夫婦には子どもさんが3人(女性2人、男性1人)おられた。英美子さんから受け継ぎ干しダコ作りを今、中心に行っているのは英美子さんの長女の娘、小裕奈さん(27)で、それを次女の賀子さんと、長男の賀之さん(47)の妻、容子さん(44)が手伝って作っている。小裕奈さんは4、5年前から英美子さんに付いて干しダコ作りを覚え、二人並んで作っている姿が生前に、マスコミに紹介された(記載の写真)。賀子さんも子どもの頃から母の側で干しダコ作りを覚え、容子さんも姑・英美子さんから教わった。しかし、三人とも仕事を持っていて、専業で干しダコ作りができず、作る期間も、英美子さんが梅雨明けの頃から9月10日くらいまで行っていたのを、7月中頃から8月のお盆の前までになり、昨年は天候が不順で晴れの日が少なく、枚数が作れなかったとのことだった。また、朝、タコを外に干してから仕事や育児、家事に入るため、雨が降っても干したタコを家の中に取り入れることができず、ご近所の人たちが気が付いて、取り入れてくれたこともあったそうだ。また、干しダコ作りに使う竹は容子さんの実父、藤田公彦さん(69)が調達して、賀子さんの夫、朗禎さん(49)も手伝うという、家族総出、地域ぐるみで干しダコ作りを受け継いでいると思った。
一方、タコ採り名人だった、父・幸雄さんも年齢と体調からタコ漁の一線から身を引いたが、その技は長男の賀之さんと、長女の息子の聖士さん(30)が受け継いで漁に出かけている。干しダコ作りについては、賀子さんと話し、名人・英美子さんの供養も含めて、元気だった時に聞いた話を再度、書き残すことにした。初めて、大西英美子さんにお会いしたのは平成3年8月で、山陽電車の月間広報誌『山陽ニュース』(廃刊)に「播磨路の職人さんを訪ねて」というシリーズの取材でお伺いした(後にこのシリーズ4年間48回分をまとめ、1998年に神戸新聞総合出版センターから『まちの匠を訪ねて-播磨路の職人さん』として刊行)。

 干しダコの作り方については、以前に英美子さん(取材当時、45)から聞いたのを要約して、記載する。
 夫の幸雄さん(当時、51)が前日に採り、イケス(網で作ったもので、以前は木で作った“ドブネ”というイケスに入れていた)に入れていたのを取り出し、タコの頭の内側のスジを切って、頭をひっくり返してクロベ(すみ)と内臓をとり出す。「スジの両側にあるツリ(二本或るスジ状のもの)を間違うて切ると、首がダランとなって恰好わるくなるよ」。この後、海でタコを洗いヌメリを丁寧にとり除く。ひっくり返した頭の内側(本当は外側)に両端を糸で結んだ馬蹄形の竹串を入れ、頭の部分にヒモを通して竿に吊り下げる。吊り下げたタコの“潮吹き”(ヒョットコの口状)の真ん中に包丁で裂いて、足を一本ずつ順番に切り離しながら、目玉とカラス(口)をとり除く。内臓をとってから一時間近くもたつのにまだ足が動いている。「元気やろ。死んだタコは干しダコには出来へん。すぐに足に竹を刺すと、まだ生きとるから刺した所で切れるので、一時間ほど待ってから竹を刺すのやけれど、この間にタコの足先を湯につけて縮ませると、格好良くなると聞いています。昔は麦ワラを下で焚いて、炙(あぶ)っとったんです」。

ドブネ

 そして、最後の仕上げの竹串を足に刺す。一方の一番端の足から、反対側の端から二番目の足に斜めに一本、もう一本を逆にかけて、タスキ掛けになるようにする。竹串を張っている間に伸びれば、掛け直してピンと張る。「大体、一日に三十パイから四十パイしますワ。それで、三時間から四時間かかります。約一キロぐらいのタコを一夜干しにします。よう干しても二日です。雨が降ったら、あわてて家の中に入れて、三台の扇風機で乾燥させます。テンピ(天日)やったらキレイな赤色になるけど、家の中やったら白っぽくなる。竹串のたすき掛けは昔からで、江井ヶ島も同じ格好やね」。朝からの作業が一段落した頃、夫の幸雄さんが、息子の賀之さんと昼からのタコ漁に出かけた。
 干しダコの食べ方は、焼いてから小さく切って、醤油、砂糖、味醂のタレにつけて酒の肴や御飯のおかずにする。「小さく切ってタレに漬けといた干しダコを、御飯を炊いている最中、ふいてきた時分に入れ、炊き上がってから混ぜる方法と、柔らかいタコの方がエエ人は、水の時から一緒に入れて炊きますネン」と教えて貰った。

 ところで、干しダコの竹串の刺し方が色々あり子どもの頃から気になっていたので、少し調べてみた。
 明石市内でも明石港の西側の新浜辺りでは少し違った形で、作っておられた柏木藤治郎さん(当時、77歳)に聞くと「昨年までは一本釣とタコ壺でとっていたけど、しんどいので、今年から竹籠のモンドリで取ってる。
干しダコの竹は正月のサギッチョー(左義長、トンド)の時に貰うてるの使うとる。干しダコの形は、これが恰好ええから、竹串二本をピンと平行に張っとるのや」と。

明石新浜の干しダコ


淡路島岩屋の干しダコ

 干しダコを見つけたので、地元の漁師さんに話を聞くと「足に掛ける竹串は横にピンと一本張るだけ。恰好、エエやろ。この辺は、この格好やね。それと、この辺のヒダコ(日ダコ、干ダコ)は大体、三日干しから、雨が降りそうやと干せへんのと」と話され、それと干しダコの作り方で、最初に生きたタコを氷水で洗って、ヌメリをとり除くそうだ。
 どこの地も、“格好良さ”で竹串を張るようだった。この時(昭和60年夏)の取材で、二見の大西さんら三人の漁師さんが口を揃えて「今年はタコの水揚げが少ない上、タコが小さい」といわれていたのだが、この年はタコの漁獲高は実際に少なかったようだ。

 古代から続くタコ漁。さらに、戦国時代には既に作られていた干しダコの技術が連綿と二見では受け継がれていた。一人の“干しダコ”作りの名人の技を女系で受け継いで、家族、地域ぐるみで守っている。また、タコ漁も男系で受け継がれていることを知った。
干しダコ作り