西尾幸氏と西尾豊氏
西尾幸さんは昭和7(1932)年、西尾豊さんは昭和6(1931)年の生まれで、家も近く子どもの頃から、友達、仲間として今までやってきた。丁度、東二見の漁業協同組合も関係した、太平洋戦争の時に二見沖で米軍の空襲で沈没した船舶の慰霊祭もあり、戦争当時の話から始まった。
(『 』は幸さん、「 」は豊さん)
幸『戦争の時はひどかったなあ。獲った魚と豆や醤油と物々交換して暮らしとった。そんな時から一緒に、漁をしとるんや。長いなあ』
豊「それ(漁)せんと食うていかれへんかったからなあ」と二人は笑って話が始まった。
幸『今でも、2人とも漁をして首をつながせてもろうてる。今日は組合が決めた休みで、話しにきました。組合で皆が休む日を月に一回、決めてます』
豊「昔からそうで、決めた休みは、皆、守って休んでたけど、最近はどうやろ」
幸『東二見のこの時期の漁の中心は、昔はタイとタコやった。タイは“ゴチ網”で獲った。タコは“底引き”と“ツボ”やった。“ツボ”は土(素焼き)から大分前にプラチックに変った。昔は、この近辺でも“タコツボ”を作る人が2、3軒あったけど、早目に注文せえへんと、手に入らなんだ。古くなって新しい“ツボ”が欲しい言うても、すぐには手に入れへんかったなあ』
豊「地元の“ツボ”が手に入れへんときは、四国の坂出から買うたけど、四国の“ツボ”はモロかった。この辺の“ツボ”は良かった。強かったしな。松野(“タコツボ”作りに出てくる、江井ヶ島の松野敏男氏)のは良かったなあ」
幸『“ジンベエはん”のは良かったなあ。昔にこうた“ジンベエはん”の“ツボ”は今でも、残っとる。エエーもんやった。“ジンベエはん”は屋号で、松野さんの家のことや。松野のクリ(タコツボ)は、中々、手に入らなんだなあ。タコは一年中採れた。松野さんはタコを採る場所によってクリの形を変え、同じ東二見の中でも採る所の形(海底)で焼きを変えていたみたいやった』
豊「最近は、海苔の養殖もあるので、海苔の合間を見てタコを獲ることにしとる。今でも、クリ(タコツボ)専門でタコを獲っています」
幸『今は、どこでもタコを獲れるけど、昔はタコを獲る場所をお互いに決めて、クリを海に入れとった。海の中でもキッチリと場所を決めて入れとった。入れる場所を決めるのは“ヤマタテ”で決めた。昔の“ヤマタテ”の目印は神出の山(神戸市西区の雄岡山・雌岡山)とかやった』
豊「神出の山は遠くからでも見えた。それに淡路の山(先山)も見とった」
幸『それぞれ漁師の技術がある、見る山は。このヤマは人に言わへん。言うたら恥かくよ。わしら今でもヤマ見て商売しとります』
豊「子どもが怒るねん。コンパスぐらい船に積めや。コンパスも持たんと沖に行くんかと。そんなもん、積めるかい言うてます」
幸『沖に出たら、何でもみえますねん。昔、覚えたところを今でも使うてます。若い人から見たら、あのオッサンもなにしとるうやろと』
豊「今の機械は難しいねえ」
幸『それから、昔は“タコツボ”で採る漁師は場所で“クミ(組)”が分かれていて、一番、沖に出るのは“オキ(沖)の組”、手前が“ナカ(中)の組”、地の浜の近くで獲る人は“ジ(地)の組”と言うとった。獲るのも場所によってイイダコを獲ったりしていた。昔はイイダコは“ニシ貝”を“タコツボ”にして取っていた。西二見は“オオガイ(学名ウチムラサキ、別名ホンジョ貝・本荘貝)”をタコツボにして獲っとったなあ。子どものころの話やけどね。最近はイイダコもおらんようになって、獲れへんなあ』
素焼きのタコツボ
オオガイの殻を使ったイイダコツボ
豊「3年ほど前に、浜から沖にでたところで、少しイイダコがおったけどな。減ったなあ。おる時は他所からでも獲りに来とった」
幸『この前も東京からイイダコないかと言われたけど、商売になるほど獲れへん。ほんまにイイダコがおらんようになった』
豊「おかしいな。あれだけは。そやけど、昔、獲らなかった魚で、最近、獲るようになった魚もある。タチウオなんかそうやなあ」
幸『タチウオもおったけど、漁にして獲らなんだ。最近は釣舟が増えた。』
豊「そうやなあ、昔はアジなんかも獲りに行かなんだけど、最近は獲りに行きよるね。二見の漁師はタコばっかしやったのになあ。イカ獲りとかやめて、一人で出来る釣が増えてきた」
幸『タコツボで獲ったり漁一本ではやっていかれへん。二見でもタコツボだけでやっていて潰れた漁師も多いねえ』
豊「おらんようになった言うたら、“ホンジョ貝”も減って、10年位前から県民局(東播磨県民局が地元と協力してウチムラサキの復活プロジェクトを立ち上げた)が放流してきたけど、去年かなあ、久し振りに見た。キレイな“ホンジョ貝”やった。」
幸『“トモアゲ(底引き網の一種)”をするようになってからは、貝は減ってしもうたなあ。よそから“トモアゲ”の網を入れに来るから、組合を通して、海苔網がある間は禁止にして欲しいと言うてますけどねえ。浅いとところでやられたら、困るのやなあ。団体で来られたら、一晩でゴッソリと持って行きよる。仕掛けに制限の取り決めはあるけどね』
豊「昔から、二見の沖は“カイガラ(貝殻?)瀬”と呼んで、ウチムラサキ、ニシ貝、マテ貝、アサリと、ようけおったんです。当時の組合長が日本でも三つに入る貝のとれる瀬やと言うてました。貝も多いから、貝をエサにするタコもようけおるねん」
幸『オオガイやマテ貝は、針のたくさん付いている“ドッコンショ”という道具で、獲っていたなあ』
豊「最近、この時期はタコツボをあげたら“カイトウゲ(海藤花・タコの卵)”がビッシリと付いとる」
幸『タコの卵が付き出したら底引き網などではタコは獲れへんようになる。タコが底の方に潜るのか、タコツボでしか獲れへんなあ。タコは卵を産んだら痩せて安うなる。海苔を作る前はタコツポ専門やった。海苔は夏の終わりころから準備を始めて、昔は4月までしていたけど、最近は海苔が色落ちするから早く終っている。海苔終って、少し休み、若い人は底引きや色んな漁をしている』
豊「年とったら、そんなに出来へん。今の人の方がよう働いとるのと違うかなあ。海苔もしてたけど、今はタコだけや。海苔をする前は、親父とはえ縄したり、貝採りに行った。昔は二見の漁師の8割は貝採りして、オオガイを採っとった」
幸『ホンジョ貝は年がら年中。採れた。よう採れたで』
豊「最近、採れんようになって、他所のオオガイを食べたけど、貝柱は小さいし、もっと、うまかったで。他所のは甘味がすくないなあ」
幸『昔は浜辺がオオガイの貝殻が山になって、タコツボの壊れたのも山になるぐらい積んどったなあ』
豊「タコだけでなく、ハリイカも“オトリ(籠にドングリの実を入れる)”を使い獲るけど、4月20日から7月20日までが決められた漁の期間です」
◆
漁の話が一段落して、漁師さんの信仰、“エビスさん”や“金毘羅さん”の話になり、住吉大社への参詣の話で盛り上がった。
幸『昔は毎年、四国の金毘羅さん、淡路の千光寺(ヤマタテの目印にしている先山にある)、大阪の住吉さん(住吉大社)に参りました。昔は“コウマイリ(講参り)”言うて、講で行ってました。“住吉講”や“金毘羅講”と3つ4つあり、それぞれの家で入っていて、大きい講は30軒くらい入ってました。この講で、四国も大阪も自分らの船に乗って行きました。今、車ですけどね』
豊「舟に大漁旗を建ててね、一つの舟に15人から20人、乗り込んで、それぞれ米や薪や醤油を持って乗り込み、飯を炊いて行きました。西宮の“エベッサン”に寄ってから、川をさかのぼって住吉さんまで船団で行きました。川で心斎橋のそばまで行きましたよ。橋の下で飯焚いて食べとったら、上からコジキやと言われました」
幸『その内、舟が大きいなって、櫓が高くなると橋の下をくぐることがしにくいのに、無理して通って、水上署に怒られたけど、ワイワワイ言うて、行ってました。大阪の橋の上から囃されて、何言うとると言い返しました。元気やったね。』
豊「昔は船で無茶ばっかりしとった。秋は千光寺(淡路)に行きました。よう行く年は、二回くらい行ったかな。今でも息子が車で行こうか言うてくれるけど、坂を上るのがしんどいので、行ってません」
幸『しんどいなあ。講を解散して、組合一本になってから、船で皆で行かなくなったなあ』
豊「船で行かんようになってからは、バスで参ってましたなあ」
幸『皆で行かんと、個人では中々、行かれへんなあ。住吉へ行く時は3日がかりやった』
豊「船を止めると、遊郭から人が出てきて、モヤイを引っ張りに来て“うちに泊って、うちに泊って”と寄って来るけど、蒲団を積んでいたから、船で寝てました」
幸『多い時は50人から60人が3隻の船に乗って行き、年寄りが飯を炊いて、若いものがオカズを買い出しに行きましたなあ』
豊「しかし、今、思うたら、どないして行っとったんかなあ、と思うね。そやけど、小学校5年生のころから沖に漁にいっとったから、よう働いとるな。そやけど、そのころから一緒で、若い時は酒飲んで騒いで近所からおこられたり、思い出して笑うときがある」
幸『まあ、行き当たりばったりでやってこれたからね』
◆
神様詣での話が終わって、最近の漁業、海苔の話になった。
幸『海苔の養殖を始めたころは、海苔以外に安定してもうかる漁はなかったもん。エエ海苔の時は、ようもうかった』
豊「その時分、海苔に勝つ漁はなかったものな」
幸『海苔でくらしはようなり、色々と変わりましたなあ。個人でそれぞれやっていたのを、組合で始め、それから10年、15年は海苔で景気が良かった。ただ、10年程前から海苔の値段が下がり始めた。ええ時は、息子がおったら親は皆、海苔を作られたから。
今は、息子が居ても海苔は止めといてくれと言います。組合員の中で海苔をするのが、100人超えた時が最高やったね。孫にまで海苔をさしたいとは思わへんね。機械代の元が取れへんからね』
豊「純利益が無くなって来たものね」
幸『そやけど、鹿ノ瀬はすごいところやね。親からも色々と聞いてきて、大変やったみたいやけど、鹿ノ瀬会に出させてもろうて、淡路島の漁師さんとも仲良うなれました。海苔網やタイ漁の話も会で決まるし。あの会によう入れたなあと、いつも言うてます。
ノリ養殖(平成27年11月)
昔は色々な方法の漁をしていたけど、網なんかの道具を入れる倉庫がなくなって、獲る方法も減ったなあ。サワラ専門の網とかもなあ。地引網も子どものころはあったけど、砂浜も減ったしね』
豊「いやー、何でも獲れたし、いろいろな漁をしとったね。タイでも安いものね。漁師は値をつけてもらわなあかへんしね。息子が言うてたけど、アジを釣っても、卸した値段と、売ってる値段見たら、ビックリした言うてた。ようけ獲れたら安いし、少ないと高い。一本釣は“カン”がいる。わしら年とって“カン”が鈍ったからね。海苔も難しい時期やな。減価償却も難しいし、海苔の時期も終わったんと違うかと息子に言うてます」
幸『一本釣りは、どこの海でも出来るから、腕があったらね。しかし、海苔はこれからは、難しいな』
地曳網 東二見びしゃもん浜
(平成27年8月2日)