大上正一氏
大上正一さんは昭和11(1936)年生まれの、今も現役の漁師さんで、組合長もされていた。
「海苔養殖は9月初めから始めて4月終りまでします。魚を獲るのは5月15日から8月一杯で終ります。昔は少し米と畑もしていました。漁はタイを“ゴチ網”で、タコは“オキマワシ(手ぐり網)”で獲ります。20年位前までは、“タコツボ”を使うて、マダコとイイダコを獲りました。もっと前は、オマガイ(ウチムラサキ)を使ってイイダコを獲っていました。30年前は“テンヤ”でマダコも釣りにいってました。この辺では、カイと言うたらオオガイのことで、“カイ突きに行こか”言うて、オオガイ採りに行きました。一本の針のついた竹で海底の砂地の貝の目を見つけて、その目を目指して突くのですわ。若い人は竹2本を持って突いていました。若いころは、午前中だけで20貫から30貫は獲れました。海の中を覗いたら1メートル四方に百個ぐらいおったね。それがね、死んでしもたのか、一つも採れんようになってしもうた。何の原因か分れへん。冬はエエ儲けになりました。12月から4月一杯は採れていたね。浜辺は貝殻の山だらけでした。冬のシケの時は貝殻を使って1万個くらい“イイダコ獲り”の道具を作ってました」
漁具図「大貝突」
『播州東二見浦漁業の歴史』より
タコとオマガイ(オオガイ)獲りの話を終えて、他の漁について聞いた。
「30年くらい前やったら、網でサワラを獲って、秋は片口イワシを餌にして船の横から竿を出してサワラを釣りました。終戦後は食料品統制の時で、警察に捕まるのを覚悟で舞鶴や伊勢までイワシを買いに行き、警察に取られたこともあった。バレんように苦労したな。
その後は、“擬似針”で釣るようになった。サワラの漁は春と秋やった。春の魚と書くけどな。昔は瀬戸内海が中心やったけど、水温が変ったのか最近は日本海へ行って新潟も釣れると言うとった。サワラの釣りの時期は9月ころから12月一杯です。それ済んだら、“巾着網”で採りました。この辺で10トウ(10の船団)で、一つの船団で船は3~4ハイ(隻)くらいで、人数は40人くらいです。秋のサワラが終わると、ハマチ、イワシ、コノシロを網を変えて、昼網で、ハマチ、イワシ、コノシロを獲り、夜の網ではサワラを獲りました。昼網は“巾着網”で、夜の網は“ハナツキ網”というて農具の箕のような形で、夜光虫を付けて魚を寄せて獲りました。片口イワシも獲れて、沖で淡路島の岩屋の加工業者(イリコ)へ売りました。今は、この網も、もうしていないなあ」
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「海苔は4、50年くらい前からかなあ。最初は魚住がしていたのを聞いて、海苔養殖の枠を自分らで作ってやり始め、段々と大きくなり人手もかかり、皆、始めてきました。
海苔もはじめのうちは良かったな。機械も安かったしなあ。今、機械だけて何千万円もするから大変や。その時分は、エビやゴミが混じっていたりしても大丈夫やったけど、今はゴミを取り除く機械もいるし、そんな費用ばっかし要ってしもうて。機械も種類が増えていくばっかしやしね。仲間と共同で機械を買うても、すごい値段や。そやけど、海苔を使うたもんも、コンビニなんかでは安く売っとるから、海苔の値段も安いしな。
元が取れへん。海苔だけでなく、沖に行く船も、道具も高うなったなあ。最初は西二見の東側の25人と、西側の25人が協同で海苔を始めたけど、それぞれ意見もあって、今は個人、個人で仲間作って、3人とか5人で作っている。昔は12月から5月まで、真っ黒な海苔やったのに、最近は色落ちするから3月ころでしまいやな。雨が降ったら海へ養分が流れてくるから、エエけど。昔やったら栄養があり過ぎて、逆に腐って来ていたのに、今は池や田んぼの水が海に流れて来やへんから、海の栄養が少のうなって、海苔が色落ちしてしまう。田んぼからの溝もコンクリートになってしもて。子供時分は田んぼの脇に“コエツボ”があったりしていたもんな」
西二見の漁船①
西二見の漁船②(ノリ)
西二見の漁船③(タコツボ)
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「海苔の網がある間は、海苔だけやね。海苔をしているのは20人ぐらいで、海苔をしてない人と年寄りはタコ釣りが多いね。“タコツボ”で獲る人は一人で、あとは“テンヤ”で釣っとるな。イイダコも少ないなあ。昔はこの時期は皆、イイダコを獲りに行き、貝(オオガイ)で採りに行っとった。そやけど、海の底が漁で荒らされて、貝殻も少のうなってきて、イイダコが子を産むところが無くなった。11月、12月は皆、イイダコ獲りばっかしやった。獲れた時分は子を産むとこに“カイガラ”を入れたら何ぼでも獲れたけど、今は獲る“カイガラ”を海に入れたら、場合によっては底引きに道具をみんな、持っていかれてしまうもんな。ホンマニ、イイダコもようけおったで。嫁さんをもうた時分は、2月から6月はイイダコ獲り専門に行った。荒井(高砂市)の沖までも採りに行っとった。昔はハリイカとマイカも獲っていた。仕掛けは竹の籠にツツジの木の蕾の着いたのを海に漬けとると、子を産みに寄って木の枝の中に入ったのを籠をあげて採っとった。モンゴイカは青い葉の木が好きみたいでね、バベ(ウマメガシ)を籠に入れて獲ったなあ。アナゴも40年前は獲っとったな。手で引っ張る軽い底引き網を潮の流れにのせて引き、アナゴを獲った。布で作った“フカシ”と言う海の中の帆みたいなのを付けて流すのやけど、その加減が難しい。熟練がいるからな。“ハエ縄”でアナゴを獲る人もおったね。正月になったら“寒ボラ”を獲っていたけど、PCB問題があってから、PCBを一番持っとるいわれた“ボラ”と“コノシロ”は獲らんようになったな。それまでは、“ボラ”専門に“タテマワシ網”で獲りにいっとる人もおったな。“コノシロ”なんか“巾着網”が一杯になるほど獲れ、東京の方へ送った。大体、秋から正月までの漁で“アジ”なんかも一緒に獲っとった。“タイ”も“ハマチ”も最近は養殖が多くなってきてな。昔はタイを40枚、50枚と獲ったら大漁旗を上げて帰って来てた。今はな二人で漁に行っても300キロほど獲って来るから、天然のタイでも値が安いもんな。養殖もあるしね」
ボラ(明石川河口平成28年3月)
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「鹿ノ瀬の会に組合で入っていて、鹿ノ瀬でも漁をします。鹿ノ瀬でも海苔をしてるから、海苔が終わらへんと漁が出来へん。しかし、うまいことなっとって、海苔が終わる時分から“タイ”が獲れ出すしな。海苔の間は禁漁期間みたいなものやなあ。“タコ”は鹿ノ瀬でもとるけど、この地の沖の“二見の瀬の上”にはようけ棲んどるから。ここからは15、6人はそこへ獲りに行くし、明石や淡路からも獲りに来る。
今のタコツボ
昔、“タコ釣り”しとる時分は、林崎の沖でも“タコ”は結構、おったんやけどなあ。今年のタコは結構、小さかったなあ。それに最近はブレジャーボートまで“タコ”を獲りに来よる。違法やけどな。県が取り締まってほしいと思うけど。海の日に明石の組合から人を出して監視員出して見張っとるけど。1隻の船に5、6人乗っとるよ。この組合の窓から見えるのが、一斉にでて行くし、他所からも来て何百隻にもなって、危ないしなあ。困ったもんや。言うても聞けへんしな。ここの組合のタコを獲る網は大きないし、夜が明けてから昼過ぎまでの漁やけど、他所から来て大きな長い網を使って獲るタコ漁は前の日の夜9時ころから、次の日の朝の10時まで漁をしとるからね。“タコ”は盆を過ぎたら子ドモを産むため“タコツボ”に入るので、網に入らなくなり、“タコツボ漁”になりますから。まあ、“タコ”が一番うまいのは夏の半夏生のころやねえ。そのころになると、急に大きくなるから、うまいのと違うのかなあ。今年は中尾(魚住町)の沖に、かたまって“タコ”がおったな。それとか、“カンダマの瀬”の浅いところで、ようけ獲れたもんな。“タコ”も大きなるにつれて移動するのと違うかなあ。エサになる色んな貝があるとこ、泳いで寄って来るのと違うのかなあ。うまい時分に獲れたのを冷凍しておくと、いつまで経っても柔かいし、うまいね。そやけど、“サンパチ(昭和38年)豪雪”の年には、“タコ”は一つも獲れんで、仕方ないから“ベラ”釣りに行った。おかしいもんやな。それから、今ころからやけど、“チリメン”漁をしとると、網の目が小さいから、“タコ”や“アナゴ”の小さいのが、ようけ獲られてしまうのやなあ」
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「今年、一人、若い漁師が組合に入ってきた。30歳から下は3、4人はおるのかなあ。昔、西二見には“巾着網”が二つあって、“ニシアミ(西網)”,“ヒガシアミ(東網)”の二つの組があって、それが海苔をしだしてから“ニシアミ水産”、“ヒガシアミ水産”と名前が付いたんです。でも、引っ付いたり離れたりしてね。自営業が固まったみたいなもので、親方がおったらしようがないけどね。うちは網元と違う、共同でしてきたから。ちょっと網をするのに人がいるのなら、その度に、集まりを作ってきたりしてたなあ。親父から教えてもろうたのは“タコ釣り”と、イカ獲り”やね。小学校に上がる前から親父の舟に乗って行った。その時分は、大きな網なんかなかったからね。網もそんなに良うなかったけど、一杯獲れたのは、魚がようけおったんやろうなあ。この頃、タイの網にな“ノソ(フカの子ども)”が結構かかって困るなあ。昔は“ノソ”専門に採ってる漁師もおったけどな」
ノソ(平成27年8月)
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「この辺(西二見)はお寺は、皆、威徳院やね。エビスさんもある。講は前に無くなってしもうた。金毘羅さんも昔は行ったけど、今は青年部が行ってるよ。船の名前は住吉丸やけど、住吉さんにも最近は行ってないなあ」
東二見、西二見の熟練漁師さんのお話を伺って、この辺り、というより、日本の漁業が海苔の養殖によって、大きく変化したことを知った。昭和40年過ぎくらいの漁業は“その日暮らし”、“板子一枚底地獄”と言われるほど、不安定なものだった。それが、海苔養殖がはじまり、“採る漁業から作る漁業”といわれる中で、漁業は安定した収入が見込まれる生業へと変わっていった。ただ、その中で幾世代も受け継がれてきた漁法がなくなっていき、採る漁業も機械化、大型化が進んできた。しかし、両組合の熟練漁師さんがいうように、海苔養殖も一つの転機にきているのかもしれない。これからの漁業がどうなって行くのか。明るい、元気な三人の方も、この話になると不安は隠せないようであった。海苔養殖の前の漁業を知っている漁師さんたちがおられる間に、色々な技術、伝承を残していくことも、将来に何かあった時に、必ず役に立つ、そんな気がするお話であった。
威徳院