東は神戸・大阪、西は四国中央市妻鳥町(めんどりちょう)新浜(しんはま)・岡山県笠岡市神島・今治市の小大下島へと航行していた。株式会社二見線は、来島海峡がある瀬戸内海の半分辺りまで、河野水軍の本拠地である大三島の周辺まで交易圏としていたことがわかる。
『單元構成資料』
不定期便の二見の船は、どういう目的で航行していたのであろうか。神戸・大阪なら乗客の運搬も考えられなくもないが、西の方は不定期でも乗客は勿論、四国八十八ヶ所を廻るお遍路さんもそんなにいない。物流に関係していたと考えたが、ミカンとか塩ぐらいしか思い浮かんでこない。
ヒントは小大下島にあった。大三島の西にある小さな島である。この島は、ほとんどが石灰岩でできていて、明治の初めから石灰岩の採掘が始まり、日本セメント・アサノセメント・住友鉱山などが操業していた。昭和30年代になって採掘が海面下まで及んで減量し閉山してしまった。小大下島からセメントを運んでいたのであろう。
小大下島近辺図
次の愛媛の新浜は、四国中央市妻鳥町の新浜で、新浜には三島川之江港があり、現在、この港へは製紙原料のチップと、燃料の石炭が運び込まれ、紙パルプ類が積みだされている。港の岸壁には、丸住(まるすみ)製紙・大王製紙の工場が隣接して建設され積荷が工場と直結している。港の背後には、これらの会社を中心に製紙会社の工場群が建ち並んでいる。二見の船が運んでいたのは、これらの紙類であろう。
丸住製紙大江工場・三島川之江港
四国中央市にある資料館の方は、「二見が交易していた新浜の位置について三島市と川之江市の境を流れている川の河口に港があったようで、山陰地方からコウゾが運ばれてくるなど各地のいろんな物産がここに集積されていて、かつて物流の中核をなしていたと聞いたことがありますよ。」と話された。
最後に、岡山の神島だが、笠岡市教育委員会の方から、「南に差出島・明池島・稲積島、奥に高島を臨む神島外港(こうのしまそとこう)が、二見の船が交易していた神島で、港の背後に硫安などの化学肥料工場があって最盛期には中国へも輸出していました。」と教えていただいた。
神島外港から辺りを見渡すと西方の煙突から白い煙がでていた。行ってみると港のすぐ近くに、エムシー・ファーティコム神島工場があった。
エムシー・ファーティーコム神島工場
この会社の名前はMitsubishi Corporation(三菱商事)、Fertilizer(肥料)、Communication(コミュニケーション)からなる造語だそうだ。現在は、肥効調節型肥料・省力型肥料・環境保全型肥料などが製造されている。二見港では、瀬戸内地域の生産品を西から東、東から西へと商う物流に携わっていたことがわかった。昭和27年頃、二見港は、なかなかダイナミックな経済活動を展開していた。古代・中世・近世・近代を通じて連綿と瀬戸内海の津々浦々でおこなわれていた交易が、このように受け継がれていたのである。
神島外港