絵図類や地誌「明石記」の記述から清水、福田、和坂、大蔵谷の4カ所にあったことがわかる。しかし、それらは既に無くなっていて、存在していたことさえも伝えられていない。それらの位置を現状から特定することはできないが、地籍図等の精査により以下のように考えることができる。
①「清水」:瀬戸川西岸
水論図などの絵図に清水村の西、瀬戸川西岸に一里塚が描かれている。地籍図の調査により絵図とほぼ同じ位置の街道の両側に「塚原野」と記載された狭小な土地があることから位置を特定できる。
ただし、明暦3年(1657)のものとされる「尼崎より加古川まで街道絵巻」では清水村に一里塚は無く、福里村と長池村に描かれている。この間は一里よりもはるかに近い距離であり、時代による変遷があるとしても考えにくい。また、P6の「明石領之図」にも清水村の西には一里塚は無く、疑問である。
②「福田」:住吉神社北東、住吉神社の南を南西から北東へ伸びる道と西国街道の交差点東側
各種の絵図や記録で福田村住吉神社の北付近にあったことは確実。地籍図の調査により街道の南側に「旧一里塚」と記載された狭小な区画があり、北側にも同様な土地割りがあることから位置を特定できる。
③「和坂」:坂上寺の西(段丘端部)
「行程記」などの街道図に描かれているように坂上寺の西(坂の上)にあり、地籍図の調査により街道の北側に「塚」と記された狭小な区画と街道を挟んで南側の同様な狭小地に「原野」とあること、「明石記」の記載通り「福田」から一里余りの距離にあたることなどから、街道を挟んだ一対の一里塚であると考えることができる。
【参考】和坂の東(沖積地)王子との間 播磨国絵図(慶長・正保)の記載位置
これについては江戸時代以前の一里塚で姫路を起点としたものという見解がある(注)。江戸幕府により統一整備される以前の池田家による“播磨国一里塚”が残っていたのではないか。そして、国絵図類には古い時代の一里塚の位置情報が引き継がれている部分があるのではないかとも考えられている。(注)八木哲浩「播磨国絵図成立年代について」『慶長播磨国絵図』(1977)
「慶長播磨国絵図」にみる一里塚(王子の西にある矢印)
④「大蔵谷」:朝霧川の東、狩口川との中間点付近
明治21年頃から始まる山陽鉄道(現在のJR西日本)の敷設工事など、街道沿いの開発時期が早く、位置の特定は困難。ただし、昭和50年代に描かれた久保直明氏の図に“新生食堂前”と記されていて参考になる。昭和52年発行の『ゼンリン住宅地図』に“ドライブイン新生”があり、「明石記」の記載通り和坂一里塚から直線で約1里(約4km)の距離でもあることから、この付近を大蔵谷一里塚の位置であると推定できる。
一里塚間距離数表 |
「明石記」記載距離 |
清水~福田 | 福田~和坂 | 和坂~大蔵谷 | |
2点間直線距離 | 36町39間 | 36町32間 | 36町 |
(m換算) | 3,997m | 3,985m | 3,926m |
曲折距離 | - | - | 41町51間半 |
(m換算) | 4,565m |
推定位置間距離 |
清水~福田 | 福田~和坂 | 和坂~大蔵谷 | |
地図計測2点間直線距離 | 約4,500m | 約4,400m | 約4,100m |
曲折距離 | - | - | 約4,800m |
[換算基礎] |
1間=1.818m | |||
1町=60間=109.08m | |||
1里=36町=3,926.88m |