道の管理

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 主要五街道は幕府の直接管理であり、管理役として道中奉行が置かれたが、西国街道は脇街道であり、幕府の勘定奉行の支配下ではあるが、直接的にはその地の領主(藩主・代官など)が管理した。明石藩では道奉行が置かれていたことが記録にある(注)。この道奉行の役務内容は明らかではないが、日常の道の清掃や修繕は沿道の村々に割り当てられていて「明石記」に記載がある。その他、道の管理に関しては次のような記録も残っている。
 慶応2年の西島村の日記には
“一橋様並御老中御若年寄、其外御役之方近日芸州表江御通行御座候、依而之往来御道筋荒所普請道直し大急ニ致候様被仰出候、明十二日中ニ念入可仕候事”
 とあり、幕府の要人が通行する時には道の修繕が大急ぎで念入りに行われたことがわかる。(『明石市史資料第6集』)
 宝永元年の西島村差出帳に
“往還之道 長六拾間 東ハ長池村西迄 西ハ清水村長池堤 森村支配境迄 此場所道作り掃除仕候、大水ニて破損之節ハ御扶持人足被下普請仕候、道ハ村人足にて仕候”(『明石市史資料第6集』)
 日々の管理修繕と災害復旧などとは区別されていた。
 また、寛政12年(1800)に瀬戸川上流に築かれた寛政池の築造工事に携わった「尾張嘉右衛門・太右衛門・傳七」を始めとする“尾張人足”と呼ばれる人たちが、その前年寛政11年(1799)に垂水の往還工事(修理か)を請負っており、土木工事の技術者集団による大がかりな工事も行われている。(『明石市史資料第6集』)
寛政池位置図(明治19年測量地図)
寛政池位置図(明治19年測量地図)

 村人たちによる日常の管理では、道がぬかるんだり壊れたりした時に緊急に修繕するための砂利が要所要所(村境か)に確保されていたようで、昭和戦前期頃までは道の脇に砂利置き場があったと伝えられている。(清水西の瀬戸川端、清水村と長池村との境の交差点)
 
(注)明石藩の道奉行
 天明4年(1784)7月8日に石田銀太夫が道奉行を仰せ付けられている。また、寛政3年(1791)には石田太郎兵衛が病気のため、道奉行の役を免じられている。(「明石年中行事」)