幕末期の往来

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 幕府の制度改革の一環として文久2年(1862)に行われた参勤交代制の緩和によって大名の奥方たちが江戸から国元へ帰国し始めたり、海岸防備のために大名家の家中や役人たちが頻繁に往来するようになった。また、元治元年(1864)の長州征討軍(注:p29参照)の派遣とそれに続く慶応2年(1866)の第二次長州征討軍の派遣により大勢の軍隊が街道を往復した。このように、幕末期の街道筋は大人数の人たちの移動で賑わった(というより混乱していた)。一時に大勢の休泊がある時は、本陣・旅籠だけではなく一般の町屋にも分宿し、また宿場内だけでは対応できなかった布団や蚊帳・草鞋・馬沓・干草・藁などは近隣の村々から調達していて、その様子が記録に残っている。
○嘉永6年(1853)11月14日
 勘定奉行川路聖謨(かわじとしあきら)長崎行きにつき11月18日大蔵谷泊り 164人 大蔵谷大蔵院仮厩 米藁千しめ 日延べにつき内四百しめ 17日迄に長池村本陣へ持参 西浦辺組(7村)
○元治元年(1864)11月7日
 尾張前大納言様、此度長州表御用有〔長州征討に向かう〕…〔大蔵谷に分宿するが蒲団が足りないため〕…大ふとん五拾枚、早々御取寄之上、大蔵谷御本陣へ御差出…大蔵谷庄屋江持参
○元治2年(1865)1月10日
 尾張様芸州より帰国〔長州征討軍〕につき大久保町御泊、大蒲団百枚を西浦辺組(9村)に割付
○慶応元年(1865)閏5月26日
 〔長州征討軍帰国につき〕
 馬沓壱万疋分仰付〔新田組・中里組・押部組・野ゝ上組・西浦辺組〕