1 大蔵谷の概要

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 大蔵谷は明石市の東端に位置し、近世明石城下町の東に隣接する。西は源平合戦ゆかりの両馬川と東は朝霧川に挟まれた地域である。南は明石海峡に面し、かつてはアナゴ・カレイ・スズキ漁や地曳網漁などの漁業も盛んであった。枝村である太寺村が立地する北側の丘陵地と海岸との中間を東西に街道が通る。街道を東進して大蔵谷を過ぎると、道は山地に遮られ、海岸を直進するか、北上して山地を迂回するかの分岐点となり、古くより交通の要衝地であった。また、西部に鎮座する稲爪神社は“稲積”とも伝えられ、“大蔵”と結び付けて、古代の「屯倉」との関連も推定される。

『播磨名所巡覧図会』にみる大蔵谷

 鎌倉時代に成立したとされる「源平盛衰記」には、一の谷の合戦に敗れた平経正(清盛の甥)の落ち行く先に「大蔵谷」の名が挙がる。弘安8年(1285)大和国西大寺の僧叡尊が播磨国法華山からの帰りに「大蔵谷」に立ち寄ったことが「感身学正記」に記されている。その後、元弘2年(1332)3月11日、後醍醐天皇が隠岐へ流される途中「大倉谷」を通過したことが「増鏡」にみえる。また、建武3年(1336)湊川の戦いの前日に京都を目指す足利尊氏が軍船を大蔵谷の浜に着け、陸路を東進する足利直義も大蔵谷に陣を張った。嘉吉元年(1441)には播磨守護赤松満祐が将軍足利義教を殺害し播磨へ帰った時、追手の幕府軍と戦うため満祐の弟祐尚が陣を構えた。これらは通過地として名が記されているだけではあるが、やはり交通の要衝地として知られていたからこそ、その名前が記録に残されたのであろう。
 江戸時代になり西国街道が整備されると、宿場町として発展する。宝永元年(1704)には本陣1軒、旅籠屋60軒、馬46匹、駕籠問屋2軒、駕籠仲間80人であった。幕末期(文久か?)のものと思われる「本陣旅籠屋宿割図」が伝わっており、本陣とその向かいにある2軒の脇本陣、石井夘右衛門と龍宮屋重次良を中心とした宿場の町並みを復元することができる。『諸国定宿帳』(浪花講 文久3年)には「はし本や久右衛門」の名がみえる。文久2年(1862)頃まで本陣を勤めた広瀬治兵衛家は、天正年間(1573~1592)に周防国岩国から移り住んだと伝えられている。本陣は、広瀬家から脇本陣龍宮屋の住野家が継いで明治維新を迎える。

「本陣旅籠屋宿割図(部分)」(住野文吉文書)

 神社は、推古天皇の頃に異国から攻めてきた鉄人を三島大明神の力により退治したという話を伝える稲爪神社や八幡神社、明石藩主松平信之により創建された菅原道真を祀る天神社が鎮座する。寺院は、赤松祐尚が陣を構えた跡と伝えられる大蔵院や西林寺・円乗寺が所在する。

稲爪神社