(『釋日本紀』巻八)
播磨国風土記に曰う。明石の驛家(うまや)の駒手の御井は、難波高津宮天皇の御代、楠が井の上に生えた。朝日には淡路島を隠し、夕日には大倭嶋根を蔭すほど大きい。仍ち其の楠を伐って舟を造るに、其の速いこと飛ぶが如く、一かきで七つの波を越えた。仍て速鳥と号く。ここに朝夕この舟に乗って天皇の御食事に供えようと此井の水を汲むに、一日、間に合わなかった。故に歌を作り料理の水を運ぶことを止めた。唱に、
住吉の大倉向きて 飛ばばこそ 速鳥と云はめ 何か速鳥
(『播磨国風土記への招待』)
大蔵谷村が舞台になっていると考えられている「速鳥」の話が、最古の地誌『播磨国風土記』の逸文として、『釋日本紀』に記されている。「速鳥」には明石驛家(あかしのうまや)・駒手御井(こまてのみい)・難波高津宮天皇(なにわたかつのみやのすめらみこと)など、大蔵谷村の古代の姿を知る手がかりとなるキーワードが、数多く含まれている。大蔵という地名は、「速鳥」にある“夕方になると大きな楠の蔭で辺り一帯が暗くなる=オオクラ”に由来するという説まで生まれている。これらのキーワードから、古代の大蔵谷村について考えてみたい。