大化(たいか)2年(646)の改新の詔には、「初めて京師を修め、畿内国の司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬を置き、及鈴契を造り、山河を定めよ。」(『日本書紀』)と記されている。大化の改新を契機として、政治・軍事と共に交通制度が全国的に整備されたといわれてきた。しかし、実態については、よくわかっていない。
天智天皇2年(663)に白村江の戦いが起こり、倭国・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との戦争に日本は敗れた。朝鮮半島での権益が失墜し、日本は外国の占領下に入る危険性が最も高くなった。白村江の戦いは、古代日本を震撼させた大事件で、『日本書紀』には、いち早く唐や新羅による侵攻に備えたことがみえる。天智天皇3年(664)には「対馬島・壱岐島・筑紫国等に、防(さきもり)と烽(とぶひ)とを置く。また、筑紫に、大堤(おほつつみ)を築き水を貯へ、名づけて水城(みづき)と曰う。」、翌年には「長門国に城を築かしむ。・・・筑紫に遣わして、大野と椽(き)、二城を築かしむ。」とある。大宰府都城の防備を固めるために水城を築き、大野城・椽城で守った。現在、これらの城を基点に大宰府を取り囲む土塁・石塁の存在が検証されている。そして、天智天皇6年(667)には都を近江に遷して、「倭国の高安城、讃吉国山田郡の屋島城、対馬国の金田城を築く。」と防御を固めていった。これらの城は、九州・瀬戸内海沿岸の山上に築かれた山城で、百済人の指導で造られたといい、山全体を土塁・石塁で囲んだ屋島城(香川県高松市)などを朝鮮式山城と呼んでいる。また、文献には登場しないが、鬼ノ城(岡山県総社市)や播磨城山城(きやまのき)(兵庫県たつの市)など石垣で区画された列石遺構からなる神籠石(こうごいし)系山城にも、この時期のものが存在すると考えられている。