(3) 古代山陽道

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 天武(てんむ)12年(683)から都と地方を結ぶ道路は、東の東海道(太平洋側)・東山道(内陸側)、北の北陸道(日本海側)、西の山陰道(日本海側)・山陽道(瀬戸内海側)・西海道(九州・壱岐・対馬)、南の南海道(大阪湾側・四国)の七道に分けられて整備されていった。道路制度については、700年代にはいると、文献には駅を運営するために必要な財源となる駅起稲(えききとう)、駅使が利用できる馬の数が刻まれた駅鈴など、細かい制度まで及ぶ具体性をおびた内容が記述されるようになってくる。それぞれの道は、大路・中路・小路に区分され、駅家と書いて「うまや」と呼ばれる施設が原則として30里(16km)に1駅置かれた。大路には馬が20匹、中路には馬が10匹、小路には馬が5匹配置された。その後、800年代になると馬の数が減少され、駅家が廃止されていることから、陸上輸送から瀬戸内海を利用する海上輸送に変わっていき、駅の制度が衰退していったことが文献からわかる。道路を整備し、駅家を設け、駅馬・伝馬を置くこの制度を駅伝制といい、播磨国では山陽道が東西に通過し、駅家が明石・(仮称)邑美(おうみ)・賀古(かこ)・佐突(さつち)・草上(くさかみ)・大市(おおち)・布施・高田・野磨(やま)の9カ所に置かれた。そのうち、明石市内には明石駅家と文献に名前がみえないので仮称として邑美駅家と呼ばれている2つの駅家があった。