(4) 明石駅家

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 『播磨国風土記』が編纂されたのは、霊亀(れいき)元年(715)前後と考えられているので、明石駅家はこの頃には既に設置されていたことがわかる。この明石駅家の存在を世に知らしめたのが、『大鏡』に登場する菅原道真である。道真は人生の中で大きくは二度、明石とかかわりを持っている。最初は仁和(にんな)2年(886)、讃岐守に任ぜられて海を渡って四国に下ったときで、京と讃岐を何度か行き来している。仁和4年(888)に京から讃岐へ帰任する時、明石駅家に立ち寄ったことは「駅楼の壁に題す」という文言が漢詩集にみえることからわかる。二度目は、寛平(かんぴょう)2年(890)に讃岐守を終えて京にもどった道真が、政治の中心で活躍するようになったことに起因する。その結果、力をつけてきた藤原時平をはじめ、貴族から反感をかうようになっていき、昌泰(しょうたい)4年(901)正月25日に突然、大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷される。“こちふかば にほひおこせよむめのはな あるじなしとて はるをわするな”という歌を残して旅立った道真は、大宰府へ向かう途中で明石駅家に立ち寄ったという。『大鏡』には、明石の駅長にあてて、“驛長無驚時変改 一榮一落是春秋”という漢詩を送ったとある。よく知られて名高いが、自ら編集した『菅家後集』にはなく、この本の書き込みに、「この詩はある僧侶の書中にあるが、真偽をしらず」と記されている。明石駅家に来るまでは、須磨駅家があるにもかかわらず、板で急きょ宿を建てたことに由来する板宿や漁師がつくった大きな綱の円座で休まれたことから名づけられた綱敷天満宮の説話が残されているように、罪を受けた人物が駅のような公的な施設を利用できなかったのではとも思われる。駅家に立ち寄れたかどうかはともかくとして、この時期、9世紀末から10世紀の初めのころ、明石駅家が存在していた、これは間違いのない事実である。
 では、この明石駅家はどこにあったのであろうか。この問いに最初に回答を出した第6代明石藩主松平信之は大蔵谷村として、延宝(えんぽう)7年(1679)に大蔵院の寺領であったところに、わざわざ替地を与えて天神社(明石市大蔵天神町)を建てた。『播磨国風土記』「速鳥」と『大鏡』にある菅原道真が明石駅家で休んだ故事から推察して導き出したのであろう。舞台設定がなされた時期はわからないが「菅公蹲石(かんこううずくまりいし)」もあることから、この神社を地元では休天神(やすみてんじん)と呼んでいる。

天神社

 昭和7年(1932)、「菅公旅次遺跡」と刻まれた石碑が、大蔵谷村の枝村ともいえる太寺(たいでら)村に建てられた。書は、『明石名勝古事談』の著者、橋本海関による。道真が旅宿した地を太寺村としたのは、付近に8世紀初めの瓦が散布する太寺廃寺塔跡が存在したからであろう。石碑は道路の拡幅工事で南へ移され、現在は神姫バスの明舞団地・朝霧駅方面の「太寺(たいでら)二丁目」バス停のすぐ西に建てられている。

「菅公旅次遺跡」石碑

 太寺廃寺塔跡は、高家寺の境内の東南隅にあって、礎石が3石、基壇上に残されている。そのうち、北側の2石は中心間の距離が約8尺(2.5m)、残りの1石の距離は北側の2石を結ぶ線と直角に約16尺の位置にあることから、1辺約24尺(7.3m)の3間4面・高さ30mの五重塔であったと推定されている。太寺廃寺塔跡は、昭和53年3月に兵庫県指定文化財となった。高家寺の境内から出土する瓦の中に、奈良時代に播磨国司が直属の瓦をつくる機関で制作させ、駅家などの関係施設に配布したと考えられている「播磨国府系瓦」がみられる。播磨一円の遺跡から同じ文様の軒瓦が見つかっていて、その中の古大内(ふろうち)式軒丸瓦と名付けられた花弁が非常に細いという特徴を備える瓦が、播磨一円の駅家跡と考えられている遺跡から多数見つかっている。太寺廃寺からは、この軒丸瓦の他に古大内式軒平瓦・野条式軒平瓦が確認され、奈良時代の布目瓦もたくさん散布していたことから、明石駅家がすぐ近くにあったと考えられた。このように、明石駅家は、広くは大蔵谷村にあったと推察されてきた。

太寺廃寺塔跡

 昭和51年(1976)から始まった神戸市西区玉津町森友での発掘調査で、奈良時代から平安時代に至る大規模な掘立柱建物群が検出され、吉田南遺跡と名付けられた。明石市北王子にある県立がんセンターの北に位置し、現在は遺跡の西半分が神戸市玉津環境センター・玉津処理場、東半分が公園となっている。神戸市の下水処理場の建設工事に伴って発掘調査が実施され、硯・木簡・墨書土器・車輪・石帯など官衙的な性格を持つ遺物が出土したことから、明石郡衙跡であることが有力である。この遺跡から「播磨国府系瓦」が出土したことから、明石駅家もその一部を構成していたと考えられるようになった。これは、かなり説得力のある見解である。

播磨国府系瓦『加古川市史』


吉田南遺跡『明石の古代』

 平安時代中期につくられた辞書である『和名類聚抄』には、明石郡に葛江・明石・住吉・邑美・垂見の5つの里(郷)があったと記されている。吉田南遺跡からは「葛」と墨書された土器、「葛江里常・・・」と書かれた木簡が見つかり、奈良の平城京跡からは「□□国明石郡藤江里・・・」という天平(てんぴょう)19年(747)の木簡も出土している。藤江里は、このように、いろんなところで顔を出し、現在も明石市藤江として、明石川の西にその地名を残している。明石里はというと、こちらは間違いなく明石川より東に位置する。従って、川の右岸にある吉田南遺跡は木簡・墨書土器から葛江里に属していたことになり、そこに駅家があれば、藤江駅家となるのであろう。ということは、明石駅家は明石里にあったはずで、明石川の東に位置していたこととなり、大蔵谷村側が再び見直されることになる。