(8) まとめ

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 潮流の速い明石海峡に面し、舟船(しゅうせん)が停泊にするのに適した港を有する大蔵谷村は、古くから春のイカナゴ漁、秋のイワシ漁などを生業とする漁村であった。現在、明石海峡を1日に1,000隻前後の船舶が通過するが、古代においては、日常的に米や地方の物産を運ぶ船の数は限られていたであろう。この村が注目されたのは、海運を必要とする国家的事業によって明石海峡を多数の舟船が行きかい、港の利用と水先案内が必要とした時期である。『播磨国風土記』「速鳥」の物語は、このような状況の中から生まれたと考えている。
 大蔵谷村から北へ約2kmに『延喜式神名帳』に記載されている赤羽神社(神戸市西区伊川谷町)がある。社伝によると聖武天皇18年勧請という。この18年を天平(てんぴょう)18年(746)とすれば、翌年は東大寺の大仏鋳造を始めた年にあたる。ということは、天平18年には、熟銅(精錬銅)73万9560斤(約499t)を周防国から大和国へ運ぶ舟が最も多く明石海峡を航行した時期にあたる。大仏と大仏殿の建造費は、約4,657億円と積算されている。
 『続日本後紀』には、承和(じょうわ)12年(845)に「淡路国石屋浜与播磨国 明石浜、始置船井渡子、以備往還」とある。この時期に航路をなぜ開設したのかまでは、記されていない。平安時代初期に成立した『竹取物語』では、竜の頸の珠を取りに行った大納言大伴御行が途中で嵐にあって、這う這うの体でたどり着いたのが明石浜だったという。平安時代末期の社会の様子をよくとらえている『今昔物語』には、陽信という僧が伊予国に帰る途中、播磨国の明石津で宿泊した話がでてくる。この話から、明石には旅する私人を乗せた船が停泊できる港と宿泊施設のあったことがわかる。
 明石浜、明石津については、大蔵谷村から現在の明石港の間に所在したのであろうが、住宅が建ち並び、道路・海岸が整備され、さらには地形の変化が拍車をかけて、その位置を推察すことすらできない。しかし、東仲ノ町遺跡(明石市東仲ノ町)の発掘調査では古墳時代後期の丸木舟を利用した木棺が出土し、相生町遺跡(明石市相生町)からは奈良時代の土器とともに祭祀に使われたと考えられる土馬と、少し距離を置いた地点からは駅家跡から多数見つかっている古大内式軒丸瓦が出土している。また、大蔵中町遺跡(明石市大蔵中町)からは中世の瓦積み井戸が検出され、太寺廃寺、林崎三本松瓦窯(明石市林崎町3丁目)の瓦をはじめ、播磨国府系瓦の古大内式・本町式の軒瓦など多様な瓦が出土している。特に、奈良時代の播磨国府系瓦が多量に見つかっていることから、この時期の瓦葺きの建物として、駅家・郡衙・寺院・港湾施設の存在を示唆し、明石駅家の可能性が最も大きいと考えられている。
 
―神武天皇が槁根津日子(さをねつひこ)(国つ神)と淡路島を望む海岸で出会ったのが5世紀以前であれば「舞子の浜」、5世紀以後であれば「大蔵谷(明石)の浜」となる。―