(1) 休泊した人たち

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 資料が比較的揃っている文久年間(1861~1864)をみると、大名(家族・家臣など)では山陰の鳥取藩、松江藩、浜田藩、九州の福岡藩、佐賀藩、熊本藩、柳河藩、薩摩藩、他に長州藩、丸亀藩、宇和島藩、津山藩などの名前がある。幕府役人では外国奉行、長崎奉行、長崎役人、生野銀山役人、軍鑑方、生野代官、目付たちが名を連ねている。
 文久3年(1863)7月21日~8月2日 侍従の四条隆謌(しじょうたかうた)が攘夷監察使として、明石付近の海岸防備の状況を調査するために滞在した。この時は藩主の命により大蔵院を普請して宿とし、滞在中は街道筋を通行止めにして北側の裏道を迂回道としている。西は天神社鳥居の東に、東は八幡神社の西二つ目の筋に竹門を建て藩の役人が詰めて警備するという大掛かりな対応であった。

大蔵院


大蔵谷の“裏道”

 元治元年(1864)に第1次「長州征討軍」が派遣され、慶応元年(1865)には第2次「長州征討軍」が派遣された。この時大蔵谷に休泊した人たちの記録をまとめたものが(次ページの表)である。
大蔵谷に休泊した長州征討軍(『明石市史(上巻)を元に作成』)
月日上り
下り
休泊者行先総人員本陣宿泊人員
元治元年
(1864)
10月26日下り越前丸岡藩 有馬遠江守安来(島根)321人45人
27日下り尾張藩 800人 
28日下り幕府軍目付 内藤弥左衛門 外2人安来(島根)  
 下り幕府軍目付 松平左金吾 外2人広島  
29日下り越前丸岡藩 津田平之丞  36人
11月2日下り大目付 永井主水正広島 41人
3日下り尾張藩家老 滝川又左衛門  70人
5日下り稲葉美濃守広島2,200人 
15日下り紀伊藩大番頭頭 冨田甚左衛門 1,571人 
16日下り幕府勘定所 荒木彦六   
20日下り紀伊藩家中目付役 有本式部広島  
20日上り尾張藩大砲方 荒川源五左衛門
       大井与左衛門
 8人
18人
 
21日上り荒木彦六   
元治2年
(1865)
1月8日上り越前丸岡藩 堀江平馬帰国260人馬2匹38人
9日上り尾張藩御年寄衆 大道寺主水帰国56人32人
10日上り老中 淀藩 稲葉民部大輔帰国 36人
11日上り尾張藩 旗・長持2棹帰国 40人
12日上り尾張藩付家老 犬山城 成瀬隼人正帰国52人16人
13日上り尾張前大納言帰国69人 
14日上り尾張藩家中 野崎伊三郎帰国 11人
 上り尾張藩家中 山村多門帰国30人 
15日上り越前丸岡藩 有馬遠江守帰国 大久保宿泊
 上り三河長沢 松平上総守帰国50人馬1匹1人
 上り三河長沢 松平上総守帰国50人馬1匹 
16日上り尾張藩家老 石河佐渡守帰国42人馬1匹 
18日上り軍目付 向井左門帰国22人馬2匹 
 上り松平左金吾帰国22人馬2匹 
 上り小笠原鐘次郎帰国22人馬2匹 
20日上り軍目付 大島主殿帰国20人馬1匹 
 上り    内藤弥左衛門帰国20人馬1匹 
 上り    朝倉小源太帰国20人馬1匹 
2月5日下り尾張藩目付 寺山靭負 11人 

(注)長州征討
 元治元年(1864)・7月18日、倒幕派の長州(山口県)藩兵が京都御所周辺で幕府側の京都守護職と戦った事件(禁門の変)に対する追討行動。長州藩は御所を攻めたことにより朝敵となり幕府が長州へ派兵した。征討総督は尾張藩主徳川慶勝であった。長州蒲の幕府への恭順により終結。しかし、慶応2年(1866)6月には再び征討軍が派遣される。

 慶応4年(1868)1月10日、備前藩家老日置帯刀一行186人(本陣へは33人)が大蔵谷に宿泊するが、翌日神戸の三宮神社前で隊列を横切ったフランス兵らと衝突事件を起こす(神戸事件)。文久2年(1862)に神奈川の生麦村で起こった薩摩藩兵の行列とイギリス人との衝突事件(生麦事件)を教訓として、幕府は西国街道において外国人雑居地である神戸を迂回する山間部の道「往還付替道(“徳川道”)」を整備したが、備前藩隊は従来の西国街道を通行したため事件が起こった。その影響を受けたためか、13日に大蔵谷本陣に泊った阿波藩の道中方国方昌平と清水四郎は大蔵谷から三木−小野−社へ進み、古市−篠山−亀山を通って京都に入っている。異例の道筋であったため特に書き記したものと思われる。
 
「徳川道関連略年表」
 慶応3年(1867)「徳川道」概略図
 
 3.13
 5.24
 6.6
 9
 11.7
 12.7
 
 12.9
イギリスに兵庫開港を通知
兵庫開港勅許
兵庫開港公示
西国往還道の付替を上申
付替道(徳川道)工事着工
工事完了、兵庫開港
(新暦1868年1月1日)
王政復古
 慶応4年(1868)
 1.3
 1.11
 8.3
 8.13
鳥羽・伏見の戦い
神戸事件
居留地小迂回の新道完成
徳川道廃止

「行程記」にみる大蔵谷
「行程記」にみる大蔵谷

 幕末~明治維新期の本陣住野家の宿泊日記などにみる本陣利用件数と主な休泊者(長州征討軍は除く)は次の通りであり、利用者の変化が見て取れる。(『明石市史資料(近世篇)第六集』・『明石市史資料(明治前期篇)第七集下』より)
 
文久3年(1863) 51件
慶応3年(1867) 40件
9月13日 勘定方松野銑十郎(往還付替見分)
※11月26日、12月9日にも記録あり
往還付替道(“徳川道”)の整備に当たった大坂代官所の勘定役。この年9月から12月の間、沿道の菟原郡篠原村や八部郡東小部村の記録に頻繁にみえ、突貫工事の視察・監督に日々追われていたようだ。
慶応4年明治元年 
(1868) 
42件
正月10日 備州家老日置帯刀 186人泊(本陣33人)
※翌日、神戸事件起こる 
9月25日 鉱山役人斎藤源蔵 生野銀山へ 7人泊
※10月7日、帰京につき泊
同行のフランス人は付添とともに脇本陣石井家に泊まる。
明治2年(1869) 35件 
8月19日 龍野家老脇坂縣 182人泊(本陣32人)
新潟へ官軍として出兵していた兵の帰国。
9月晦日 新政府より明石藩預りの侍7人 泊・昼(本陣18人)
箱館五稜郭の戦い(箱館戦争/注)で新政府軍に敗れた榎本武揚軍の兵7人(明石藩士1人を含む)と思われる。彼らは藩主から丁重に扱われ、この後、浜光明寺を宿舎として明石藩にフランス式銃術などを教えた。(『明石名勝古事談 第四本』、『明石市史資料第七集上』)
明治3年(1870) 13件 この年、本陣制度廃止
3月27日 松江藩泉州堺詰交代(下り) 10人泊
明治4年(1871) 17件 
4月10日 龍野藩知事脇坂淡路守 24人泊 下り
※東京から神戸までは船
4月13日 鳥取藩兵隊組 21人泊 上り 総勢380人(25軒に分宿)
東京へ官軍として派遣 
明治5年(1872) 2件 この年、宿駅制度廃止
2月24日 飾磨県権令 6人泊
明治6年(1873) 1件
11月30日 後鳥羽院様 16人、付添兵隊50人(宿:浅田屋五兵衛)
明治7年(1874) 4件
6月10日 鳥取城主池田様御隠居奥方様
本陣16人、下宿20人(宿:浅田屋作兵衛)
東京へお越し ※荷物は、人馬の継立で送る
12月16日 大坂鎮台第2大隊陸軍ほか 63人(神出広野へ陣立稽古)
12月17日 大坂鎮台第2大隊3番中隊
総勢2500人程(神出広野へ陣立稽古)
12月22日 大坂鎮台第2大隊3番中隊 53人
総勢1600人余(陣立稽古の帰り)
明治8年(1875) 1件
10月20日 松江城主松平出羽守様若殿 20人 上り
明治9年(1876) 2件
3月17日 大坂鎮台第1大隊第2中隊 66人泊 神出広野へ陣立稽古
総勢1500人(大蔵谷1000人、西新町500人)
※蒲団不足分は町方より借りる
明治10年(1877) 1件 
10月1日 第10連隊第1大隊本部ほか 22人泊 
明治11年(1878) 0件
明治12年(1879) 3件 
4月2日 大坂鎮台砲兵 神出広野陣立稽古
※総勢3000人程(大蔵谷町方西新町止宿)
4月4日 大坂鎮台砲兵 大坂へ帰り
明治13年(1880) 1件 
4月6日 大坂鎮台 広野より大坂へ帰り 48人泊
※500人余は西新町止宿
〔明治14年8月 住野家旅籠屋止業届〕

(注)箱館戦争
 慶応4年(1868)1月3日に起きた鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争最後の戦い。4月11日の江戸開城後、旧幕府海軍副総裁榎本武揚は艦隊を率いて仙台を経て蝦夷地(北海道)へ上陸、やがて箱館を占領し、12月には蝦夷地を平定する。これに対抗する新政府軍との間で戦いが展開し、翌年5月18日に榎本武揚が降伏して終結する。


大蔵谷旧本陣門(龍宮屋)①

 文久2年頃に広瀬家から本陣を引継いだ住野家は、明治3年の本陣廃止後も旅籠屋として機能していたが明治14年8月に旅籠屋の廃業を届け出ている。この頃定められた「旅籠屋取締規則」(明治15年2月改訂)には部屋毎の料金提示や路上客引きの禁止、不審者の通報など細部に及ぶ定めがあり、旅籠屋の営業も変化が迫られている。その後、明治21年には山陽鉄道が開通し、宿場町の衰退が進む。
「住野家旅籠屋止業届」「住野家旅籠屋止業届」
「住野家旅籠屋止業届」