明石の地蔵盆はこれまでに魚住町清水地区、朝霧・松が丘地区で調査をし、朝霧・松が丘地区は35年近く移り変わりを見てきました。
大蔵の宿場町跡一帯では地蔵盆の行事が受け継がれています。2年前に朝霧町1丁目の地蔵盆の調査を終え、南側のJR線路越えに大蔵八幡町の方を見ると、地蔵盆の提灯の灯がボンヤリと見え、あわてて行ってみると既に終わりかけていて「来年、おいで」と言われ、昨年夏の調査になりました。地蔵盆の調査はお参りしている子どもたちに聞いて、一緒に回るのが分かりやすく、楽しくもあります。今回は23日の夕方から、大蔵宿場町跡、西国街道沿いの東端、大蔵八幡町からスタートし、西行きは小学生のグループと回り、人丸近くまで行って帰りの東行きは中学生のグループと参りました(子ども任せで回ったために、抜けていた地蔵もあり、後日の調査で判明しました)。
当夜に回れたのは、地域で祀っている6カ所のお地蔵さんと、個人で祀っている1カ所だけで、臨済宗大蔵院と真言宗大徳寺は既に終わっていて、後日、再調査となりました。
再調査では、地域で祀っているお地蔵さん1カ所と、個人の所有の2カ所が分りました。
個人所有については、夏の調査でも「細々としているので、取材、撮影は遠慮して欲しい」と言われました。後日調査でも、そこは元々、祀っておられた高齢の婦人が亡くなられた後、家族が受け継いだものの、いつまで続けられるか分らないとの事でした。これと良く似た話は朝霧地区でも数年前にあり、前年まで子どもたちにお菓子を配っていたお地蔵様が行事を中止し、祠の貼り紙に「祀っていた一人暮らしの母が亡くなり、行事を続ける者がおらず、今年から中止とさせていただきます」とありました。実際に盛んに実施されている地域も、10年位前までは、23日夜に地域の婦人たちを中心に数珠繰りや、お念佛をあげ、翌24日朝に、お供えのお下がりを子どもたちに配っていました。それも、高齢化と少子化の影響を受け、ほとんどの地域が23日夜だけの行事に短縮されていきました。
大蔵院で聞いた話では、3年前までは観音講の婦人たちがお経をあげ、24日の朝に子どもたちにお供えを配っていましたが、2年前に大蔵宿場町跡の山側の「小辻の地蔵堂」(東人丸町にあって、休天神東側の道を北へ行き、JRの高架下をくぐり抜け、右斜めに150mほど行くとあった)を祀る人が居なくなり、地域からお地蔵さんを預かって境内に安置してから、23日夜に子ども達のお参りを受けているとの事でした。夏の調査時点でも一緒に回った子どもたちは「お寺は早く行かないと終わってしまうねん」と話していました。実際、大蔵院も大徳寺も終わっていました。二つの寺院の話では「地域でお祀りしているのではなく、地蔵盆用にお菓子を買うために数に限りがある」とのことで、納得しました。また、大蔵院では、大蔵地域で祀られなくなったお地蔵様を預かっており、大徳寺でも個人で祀れなくなったお地蔵様を預かり、祀っていました。これも、時代の盛衰でしょう。また、地蔵盆には地域によって、その年に初盆を迎えた家は地域にある6カ所のお地蔵様ともう一カ所、他所のお地蔵様を回るという信仰もあります(回るお地蔵様の数は様々です)。
小辻の地蔵堂跡
しかし、多くの民俗行事が変って行き、無くなって行く中で地蔵盆の行事は、まだ地域で受け継がれています。また、新しく造成され団地やマンションで、子どもたちにせがまれて、お地蔵様を寺院などから借り出し(京都市の壬生寺など)祀る所も出てきています(これも、明舞団地の中で、10年前までは借りてきたお地蔵様で祀っていましたが、子どもたちが減ったので、止めた所もあります)。
大蔵宿場町跡一帯で、今も色濃く地蔵盆が受け継がれているのは、子どもたちから高齢者までが一緒になって地域の祭りを楽しんで受け継いでいるからで、地蔵盆の行事は地域の活性化のバロメーターと言えそうです。(ただ、秋祭などと違って、青年、壮年の男性は少なく、中高年の女性、高年の男性が運営し、小中学校以下の子どもたちが参加する祭りと言えそうです)。私たちが子ども時代に自転車に乗って、近隣のお地蔵様まで巡り、お菓子を貰って回った様に、今の子どもたちも小学生、中学生らは仲間で何カ所も回り、幼い子どもたちはお母さん、お父さんに手を引かれて参っています。また、大蔵宿場町跡の西側にある中崎公会堂西側のお地蔵様は、近くに立ち並ぶマンションからの親子とみられる参拝者が多いのも特徴的でした。子どもたちは幼い時から、知らず、知らずの内に、この国の仏教民俗文化に触れているのです。
お地蔵様を調べていて気になるのは、やはりその場所です。今回の取材の中でも何カ所かは、戦後に他から移してきています。本来の信仰の意味から見ると、お地蔵様が祀られている場所は、村境、町境、辻など境界の地です。移される前の最初の位置がどこにあったのかによって、その地域と隣の地域との境が見えてきます。どう考えても、土地の境にあると思えないお地蔵様はどこからか移って来たと考えても良いと思います。また、逆に移された形跡がないのに、今、その土地を見渡しても、何の境界なのか気が付かない場所もあります。その例として、地元で地蔵を調べた人の話では「大蔵町と大蔵八幡町の境目あたりに地蔵様が多いが、ここは旧新川が流れていた所で、稲爪神社と大蔵八幡神社の氏子が分かれる所です」と教えられ、納得しました。また、“太山寺道”や“徳川道”などの古くからの道に沿って祀られている地蔵も多くあり、お地蔵様の本来あった場所こそが、地域の細部の歴史を伝えているのかもしれません。