かつての大久保宿の中心地
大久保町に本陣が設けられたのは、播磨国の領主・池田輝政のころの慶長5~18年(1600~1613)で、「慶長播磨国絵図」(1596~1614)には大窪村の南に大窪新町とあり、これが大久保町のもとといわれる。江戸時代に入ると西国街道は、大名の参勤交代などで賑わい第6代明石藩主松平信之のころ[万治2年(1659)~延宝7年(1679)]の記録には「本陣 安藤助太夫」「脇本陣 林屋与兵衛」と記されている。宿場町として栄えるにつれ、大きな旅籠十数軒が並ぶようになり、鉄屋、車大工なども軒を並べるようになった。
今回の調査で、吉野屋、堂本屋、船津屋、鈴鹿屋、衣屋(絹屋)、明石屋、銭屋、平野屋、丸屋、紺屋、大津屋、石屋、あこや、江戸屋、角屋、林屋、伊勢屋、山本屋、薩摩屋、きちん屋などの他に往還道にも坂口屋、崎屋などの屋号と位置をほぼ特定することができた(大久保町の小字と関連施設図、大久保街道に於ける旅籠の屋号位置)。以下、その概要を説明する。
【以前の旅籠屋調査から】
昭和47年(1972)明石市教育委員会の冊子『ふるさとの道をたずねて』が最初の調査で、あこ屋・林屋・船津屋・堂本屋・平野屋の屋号が、また、昭和48年に明石市教育研究所「ふるさと明石の史跡と文化財の研究」の成果として、きちん宿・吉野屋・角助屋・林屋・ふなつ屋・角屋・堂本屋・あこ屋の8ヵ所が確認されている。更に、昭和57年(1982)発行の『明石の史跡』には、吉野屋・堂本屋・船津屋・あこ屋・鈴鹿屋・衣屋・明石屋・江戸屋・銭屋・崎屋・平野屋・丸屋・紺屋・大津屋の屋号が確認されている。また、この書籍に「船津屋」の写真が掲載されている。
【今回の悉皆調査から】-平成28年度 調査日誌から-
7月 4日 西明石から福田までの西国街道と関係する史跡を歩く
9月 1日 聞き取り調査(大久保の宿場と屋号など概略など)
9月18日 聞き取り調査(福田地区の歴史など)
10月15日 大久保住吉神社の祭り見学と聞き取り調査
10月20日 西国街道の道標や史跡など確認調査
10月21日 大久保の脇道の確認と聞き取り調査
8月~10月にかけて悉皆調査を実施した。この間、大久保町の高齢者の方々を中心にお声掛けして、屋号等の実地調査を行った。その結果、大久保の宿場は谷八木川の東西の傾斜地に形成された宿場であること、狭い平坦地に本陣や脇本陣が立地し、旅籠などは谷八木川を挟んで営まれていたことなどの特徴を大まかに捉えることができた。不十分ではあるが今回の調査のまとめとして、次頁の二つの図を示しておきたい。
明治3年(1870)に本陣や脇本陣が廃止され、本陣は村役場になり、同21年(1889)には山陽鉄道(現在のJR)が開通し、宿場町は次第に寂れていった。当時の神戸又新日報は「沿道の旅籠屋と人力車夫は大いに影響を受けるので、一人でも多く客を引き付けるため、兵庫・明石間の車賃は8銭とさだめ、旅籠屋は車夫を無料宿泊させるようにしようと相談中である。」と窮状を報じている。
現在、安藤氏宅には本陣跡の標柱が立っている。立派な門構え、見事な庭園だが、いずれも明治の終わりの建築で、当時のものではない。今回の史料調査により、文政・天保年間(1818~1843)ごろの本陣に関する文書が多数見つかり、今後の詳しい解読が待たれる。なお、その一部はコラム欄で紹介している。本陣跡は一時村役場となったが、明治45年(1912)7月に取り壊され、門は東東光寺に、母屋は西脇の西光寺に移築された。
以上が、大久保の宿場の概要である。次に、江戸時代の大久保の宿場の様子を道中記録などからみることにする。