「行程記」は、萩藩の藩主毛利氏の参勤交代に役立てるために作られたもので、製作年代は、明和元年(1764)ごろとされている。ここに描かれている絵図や文字などから、当時の大久保宿の様子が浮かびあがってくる。
大久保の宿場付近(「行程記」)
街道を西から東へ進み、小さな流れ(赤根川)を過ぎたところに福田村がある。ここには住吉神社や一里塚が描かれ、「播磨姫路より七里、摂津西ノ宮より十二里」と記されている。今では一里塚は跡形もないが、三軒茶屋があった辺りには古い民家や道標が現存する。
国道2号線から一筋入った南角に建つ道標には「左リ住吉社二見道、是ヨリ播磨八拾八ヵ所」と刻まれており、魚住の住吉神社や二見などにつながっていたことがわかる。
大久保宿付近の絵図に書かれている文字を、街道に沿って西から読む(『播磨の街道』大国正美氏が解読)と、以下のようになる。
金ヶ崎村・村境・福田村-住吉-福田村-三軒茶-一里山「此一里山ハ、播磨姫路より七里、摂津西ノ宮より十二里、前後丁数不同」-禅宗常楽寺-川広四間-福田村・村境・大久保村-石橋長三間-本陣 安藤助太夫-大久保町-大久保村-御高札場-真宗常徳寺-[東西南北]-下座所-大久保村・村境・森田村-森田村-池-池-六軒茶や-池 |
大久保宿の本陣から東へ、森田村辺りまでくると大きな池と休憩施設である六軒茶屋が描かれている。大きな池は雲楽池、青池、カゲユ池、割池で、龍の伝説があった青池も今はなく、雲楽池が残っているだけである。なお、森田の東端には、庄兵衛(しょうべい)という屋号で旅籠をしていた橋本氏宅が現存している。
橋本氏宅(森田)
橋本氏宅の間取り
【政姫様道中日記】
安政5年(1858)に出雲国松江藩松平家の政姫(当時5歳)が江戸まで行った時の道中記に、大久保宿の様子が出ている。
四月十三日 夜五時過 御泊大久保御本陣江 御着
御寝二付御膳不被召上
十四日 御目覚六時半 御弁当被召上之
五時過 御泊大久保御本陣 御出駕
五時半過 御昼大蔵谷本陣江御着
(『東海道今昔旅日記―お姫様江戸へ』より)
『東海道今昔旅日記』/島根新聞社
著者・福島和夫氏は、この記録から次のように想像している。「政姫様の大久保到着は、今の時刻で夜8時過ぎ。あたりは、すっかり暗く歩き疲れた政姫様は食事をとらないで早々に眠ってしまった。翌朝、大蔵谷へ出発。その頃の大久保は、ゆったりとした坂の町であった。大久保橋や往還橋あたりを中心に80軒ほどの旅籠があったという。」80軒は商店も含めた数であろう。
【享保の象―大久保の宿場に泊まる】
享保14年(1729)4月17日、大久保の宿場に象が一泊した。それは第8代将軍吉宗に献上される象である。ベトナムから2頭の象が長崎に連れて来られた。残念ながらメス象は死んだため、8歳になるオス象1頭を3月13日に長崎を出発して江戸まで354里の道を74日(約2ヶ月半)かけて歩かせたのである。船で運ぶ案も出たが、日本の船は小さくて、転覆の危険があり陸の方が安全確実となったようだ。また、「将軍献上の象」を歩かせて、将軍が偉い人であることを知らしめる狙いがあったともいわれている(『江戸を歩いた象』)。
いずれにせよ、その象が大久保宿に一泊したのである。大久保の町では前代未聞の大賑わいであったと推測される。その様子が三木の大庄屋安福家に残る『累年覚書集要』に記録されている。
それによると、大久保に象が泊まった翌18日、安福右衛門は明石まで見物に出かけている。象使いの一人が象に乗り、小さな熊手を使って象を歩かせている、飼料はいたびかずら姫草、山笹の葉などであるなど、見聞したことを記すほか、前もって長崎から届いた象道中についての触書も記載している。
触書には象使い4人を含めて象つき人数は全員で13人であること、一日の道程は5~6里(約20~24km)であること、象の食べ物、象の色や大きさ特徴など、こと細やかに記されていたことがわかる。宿泊・休憩する宿場で準備を怠らず、粗相のないように無事に将軍吉宗のもとに届けるための手筈だったのだろう。また、象が泊まる象板屋についても記載されている。
ここでは『江戸を歩いた象』の記述から、象の泊まる場所について分かり易く書かれている箇所を引用する。「二頭立ての馬小屋の中仕切りをはずし、土間のすみに象をつなぐ長さ一丈、五寸角の柱を半分ほど埋める。適当な馬小屋がないときは、広さ六畳ほどのじょうぶな小屋を造ること。小屋の入口の高さ九尺。つきそいの者が中で寝られるように考える。」
なお、「享保の象行列」(尼崎市地域史資料館『地域史研究』第2巻第2号1972年10月)にも象の仮小屋について同様の記録が残されている。
このような記録や絵などから、大久保宿の何処に象の仮小屋を建てたのであろうか、想像するのも楽しい。
朝日新聞社『江戸を歩いた象』より