大久保の宿場を街道沿いに東へ行くと、森田の住吉神社が見えてくる。鳥居をくぐり社殿の奥に進むと、小さなお墓のようなものが建っている。第6代明石藩主松平信之の供養塔である。信之は父忠国[慶長2年(1597)~万冶2年(1659)]とともに明石藩の新田開発に力を注ぎ、長池、永井、生田、漆山、東野新田(森田)などの新田を開発した。
ここ森田村は昔、大久保町東野原といい、7軒の家があった。万治元年(1658)ころ、林崎掘割を設計[明暦3年(1657)]した和坂の工師山崎宗左衛門が移り住み、掘割を引き、広い野原を田畑に変えたといわれる。信之は井戸を二つ掘り、屋敷24軒を村に与え、森田村と改めさせた。享保年間の地誌「采邑私記」には「東野新町新田村、神社住吉神社」とあり、「明石記」には「森田村 東井戸深サ五間、西井戸深サ八間、住吉大明神産神也」とある。約20年間明石藩を治めた信之は、その後、大和郡山藩、古河藩へと移った。
その間、江戸幕府の老中も務め、貞享3年(1686)7月22日遠い古河(現在の茨城県古河市)の地で亡くなった。彼の死を悼んだ明石藩の各新田村の人々は、信之の徳を偲んで供養塔を建立した。今もなお、信之の命日には、それぞれの村で供物や花などを持ち寄り感謝の気持ちを受け継いでいる。
<福田村の道標と一里塚>福田村の道標と一里塚>
西国街道の西には福田村がある。もと田中村といったが、江戸中期に福を呼ぼうと、福田村に改めたという(『金波斜陽』)。明石藩主松平信之のころ、旅行者の便宜をはかるために、大蔵谷村・和坂村・福田村・清水村に一里塚が設置されたという。一里塚は道の両側に土を盛り松の木を植えて標識とするもので、「行程記」には大久保村と福田村の村境に、一里塚が描かれている。
この地点は浜街道や江井島港への三又路になっており、享保年間には三軒の茶屋ができ、三軒茶屋という地名も生まれた。さらに、福田村の西端には「さかや」という屋号を持つ佐藤氏宅があり、江戸時代から代々農業を営む傍ら造り酒屋も行っていたという。
佐藤氏宅の間取り
当時の蔵が残る佐藤氏宅
大久保の宿場『明石の風物Ⅷ』(昭和47年)より