清水は古代より交通の要衝であった。律令制の時代、明石郡には葛江(ふじえ)・明石・住吉・邑美(おうみ)・垂水の五つの郷があり、清水地区は邑美郷に属する。清水地区を東西に貫通する古代山陽道には30里(約16km)ごとに駅家が設けられたといい、魚住町長坂寺にある長坂寺遺跡が仮称・邑美駅家跡と推定されている。『続日本記』に「聖武天皇が、神亀3年(726)の秋、播磨の国の印南野に行幸し邑美頓宮(おうみのかりみや)に至る」と記された邑美頓宮の位置も、長坂寺遺跡辺りと考えられている。が、随員の笠金村や山部赤人らの歌から、天皇一行は海路を利用していることがわかり、その上陸地点を瀬戸川河口とすると、邑美頓宮は瀬戸川と古代山陽道が交差する二見町福里(清水の南西)周辺に設営されたのではないかとする論もある。
長坂寺遺跡
応安4年(1371)九州探題として赴任の旅に出た今川貞世(了俊)が旅の様子を綴った『道行きぶり』に、「印南野といふは、遥かにを(お)し晴れて、四方にくまなく浅茅(あさじ)枯れわたりて…」と、印南野は見渡す限り枯れた浅茅(すすき)が広がっていた様子や、「し水・かながさきなどうちすぐるに」と「し水」の地名を記している。清水という地名の由来は、古歌に多く詠まれた「野中の清水」(注1)、また集落に湧いていた清水によるという(「明石記」享保頃)。「野中の清水」は、『古今集』よみ人しらずの歌「いにしへの野中のし水ぬるけれど もとの心をしる人ぞくむ」や『続古今集』の俊成、『山家集』の西行の歌等々、歌枕として名高い。地名の由来となったのは、水の乏しい印南野台地に湧き出た貴重な清水故ではないのか。「野中の清水」は江戸時代には、『播磨名所巡覧図会』『播磨鑑』「行程記」その他の図絵、絵巻などにさまざまな逸話とともに必見の観光スポットとして取り上げられている。
(注1)コラム「野中の清水」参照
近世になると、「慶長播磨国絵図」に清水町・長坂寺村が、「正保郷帳」に清水村・長坂寺村が見える。「元禄播磨国絵図」「天保播磨国絵図」には、両村に加えて長池村・浜西村が記される。(石高表)明石藩では17世紀中頃に飛躍的に進歩したため池の築造により新田開発が進められた。藩主松平信之(治世1659~79年)の時代に長池の東に長池村、西に浜西村が開村されたと伝えられている。「播磨国細見図」〔寛延2年(1749)〕の東長池・西長池は、東長池が長池村、西長池が浜西村と考えられている。浜西村の名は、少し南の浜谷村と西岡村から移住し開墾に当たったことによるといわれている。西国街道はこれら清水の村々を通過することから、本陣や一里塚・高札場が設置された。清水はまた、明石から沿岸部を通り、二見・高砂方面へ通じる高砂道への分岐点であり、さらに、瀬戸川沿いに印南野台地の奥へ入り、三木へと通じる南北の道と交差する地でもあった。三木合戦のとき、天正7年(1579)毛利方が三木城へと兵糧を運んだルートもこの辺りを通ったと想定できる。
江戸時代の石高 |
清水村 | 浜西村 | 長池村 | 長坂寺村 | |
正保郷帳 正保3(1646)年 | 田高332石余 畑高162石余 | 田高371石余 畑高106石余 | ||
元禄播磨国絵図 元禄9(1696)年~元禄15(1702)年 | 494石余 | 165石余 | 48石余 | 508石余 |
天保播磨国絵図 天保6(1835)年~天保9(1838)年 | 627石余 | 167石余 | 96石余 | 550石余 |
明治以降、浜西村は清水村に合併、清水村は現在の魚住町清水となり、長池村は長坂寺村に合併、長坂寺村は現在魚住町長坂寺と魚住町錦が丘1~4丁目となる。鉄道は明治21年(1888)に山陽鉄道、兵庫−姫路間が開通し(明治39年国有)、昭和36年(1961)に魚住町中尾に国鉄魚住駅が開設された。道路は昭和8年(1933)に清水を東西に走る神明国道(現国道2号)が、昭和45年(1970)には、清水の北西を横切る第二神明道路が開通した。
西国街道は大道池の南縁と長池の北縁を通っていた。長池はその名の通り、昔は約300メートルもの細長い池であったが、周辺の開発とともに次第に埋め立てられて、中央部は魚住小学校となった。最近まで小学校の東側と西側に小さいながらも池があり、往時の名残をとどめていたが、住居表示には「長池」という地名はすでになく、2016年には西側の池も埋立てられ、東側のみわずかに姿をとどめている。灌漑用水の確保に労苦をかさねたため池を埋め立てて、さらなる市街化が押し進められている。
長池
清水・長池の街道沿い小字名と街道関連施設分布図