本陣が旅宿以外でどのように利用されたかがわかる記録がある。寛政12年(1800)に清水川原の上流秋田村で行われた「寛政池」築造工事に関連した資料を集めた「寛政池築造一件」(『明石市史資料(近世篇)第六集』)の中に「本陣」に関する記録を見つけることができるので、関係部分を抜き出してみる。
※資料中の“西長池吉郎兵衛”は長池本陣の梅田吉郎兵衛のこと (p14「寛政池位置図」参照)
4月11日 鳥川武大夫(養水目付役)様 14日朝迄御逗留 御宿西長池吉郎兵衛
4月20日 今井嘉兵衛(御下目附)殿 西長池吉郎兵衛方 迄御出 普請所見分
4月21日 今井嘉兵衛(御下目附)殿 昼飯後早々 西長池へ参、普請模様御尋
4月23日 新池普請取調の為 高原治兵衛(御下役)殿 西長池吉郎兵衛 迄御越
4月24日 相談候 左様候へば西長池へ参、…中尾村組頭十右エ門・弥兵衛
西長池 迄罷越 ※この「西長池」とは本陣「吉郎兵衛」のことと考えられる
4月28日 (御下役)普請見分の為 西長池本陣吉郎兵衛へ御着
4月30日 田中源左衛門殿(大庄屋) 西長池吉郎兵衛宅にて 絵図御認
5月 2日 村役人中 長池村吉郎兵衛方 迄御出張
藩(郡代所)の担当役人の宿舎であったのは当然だと思うが、藩の役人と工事の当事者である村役人(庄屋)たちとの会合や待合せ場所としても使われていて、さながら藩の現地出張所の趣がある。
本陣は村の有力者などが指定され、大名や公家・幕府役人など特定階層の人たちのための旅の休憩・宿泊施設として設けられていたが、このように地域の公的施設のような使われ方もされていたようである。