「アカシヤ」と呼ばれる石井 博家は、魚住センターロードと街道との交差点北西角にあり、本陣から街道沿いに西200mの位置である。嘉永4年(1851)の『定宿帳』に「長いけ あかしや太右エ門」(写真)、文久2年(1862)の『諸国定宿帳 浪花講』に「長池 宿 明石や太右エ門」(写真)と記載のある旅籠屋であった。『諸国定宿帳』に載るのは、飯盛女などを置かない良心的な宿で旅人は安心して泊まることができた。幕末の儒学者で尊王攘夷派の志士、清河八郎が山形の生家から母を連れて169日に及ぶ大旅行をしている。旅の詳細を綴る日記『西遊草』に、安政2年(1855)5月10日「明石の人丸神社に参詣し、それから二里半歩いて長池にいたり、明石屋に泊まる。田舎の村で万事不自由な宿屋だが、孔雀を飼っていた」と記している宿である。
『定宿帳』(嘉永4年)
『諸国定宿帳 浪花講』(文久2年)
(ⅰ) 旅籠「明石屋」の系譜
先の項の「本陣」を買い取った立役者「明石屋太右衛門」は、二代目石井太右衛門(文化7年1810~明治22年1889)である。二代目は初代太右衛門の二男。初代の生没年は不詳であるが、墓石に「天保七申十一月廿八日」(写真)と刻まれ、除籍謄本に、二代目の相続年が天保4年(1833)と記されている。二代目の六男、黒谷兼次郎(1865~1940年)の手による「開祖及先祖の由来、傳説」という冊子では、旅籠業の始まりは初代太右衛門の時代となる。以下(同文の要約、抜粋)
初代明石屋太右衛門墓(裏面)
「先祖は、明石郡松本村(神戸市西区櫨谷町松本)辺りから清水郷に転住してきたと伝わる。以後数代にわたり農業を生業としてきたところ、祖父の初代太右衛門は、馬の鑑定に優れ、藩主松平若狹守直明の代、お馬役付馬匹(ばひつ)鑑定人に推挙された。権勢大いに振るい、備前国や伯耆国で開かれる馬市に、特に許されて松平氏定紋入りの提灯を下げ、拝領の太刀を腰に御用馬調達の任務を果たした。軍馬の調練を重視する藩風により、鑑定人の地位は重んじられ、生活安定のため旅籠業を許されるに至った。『由来大字清水村は往古より旅籠業の絶対に許可せられざる處なるも、祖父のかくの如き功績によりてその禁を破りしものなり』 山陽街道枢要の地である当地に営業して以来、しばしば貴人の宿泊や真宗御門跡の仮泊を仰せつけられた。このような偉業を遂げた祖父を持ち、父二代目太右衛門は、旅館明石屋を継承した。」
と記され、続いて二代目太右衛門の灌漑用水確保への貢献や、神戸開港当初の食肉事業黎明期の紛争に関わる活躍などが綴られている。
兼次郎のこの記録については、松平若狹守直明の治世は、天和2年(1682)~元禄14年(1701)、没年は享保6年(1721)であり、墓碑などから推定される初代太右衛門の生存年(1700年代後半~1836年頃)との整合性がとれない。しかし、庶民にとって「明石の殿様」とくれば「松平直明」と書くのはありがちなことである。もともと清水村が旅籠業を許されていなかった云々のくだりなど、信用しても良い部分が大いにある。宿場と宿場の間の休憩用の施設は、「間宿(あいのしゅく)」と位置付けられ、旅人の宿泊は原則禁じられていた。しかし、あくまでも名目上表向きの事であったことが窺える。
清水神社から街道沿いに東へ150mほどのところに、「流慶不竭の碑」(写真)という大きな石造記念碑がある。清水村の灌漑用水確保に貢献した先人の労苦を称えて昭和初期に建てられたもので、刻まれている功労者五氏の筆頭が、二代目太右衛門である。
二代目太右衛門の継いだ旅籠は旅館「明石屋」として明治中頃まで続けられた。宿の看板と思われる文字が彫られ、取付け金具の付いた板が残っていたが、4、5年前に処分された。昔、宿泊した侍から贈られたという「家紋(三つ追い沢瀉(おもだか)紋)入りの下鞍(したぐら)」(馬具の一つ。鞍の下に敷いて馬の背を保護するもの)は額装して大切に保存されている。
(ⅱ) 家屋
明石屋(昭和25年頃)
明石屋と街道(昭和25年頃)
昭和25年(1950)ごろ撮影の家屋(竣工年不詳)の写真がある。母屋は、天井が低い二階をもつ厨子二階建ての入母屋造りで、屋根の破風に井桁の中に「石」の文字の家印がある。平面図は、博氏や、戦争中に疎開してきてこの家で過ごした従弟の正二氏の記憶により復元した。屋敷全体の構造は農家のもので、農業の傍ら旅籠屋をしていたことがわかる。街道沿いに三つの門があり、真ん中は連子格子(れんじこうし)の玄関で一般客用。両脇は観音開きで、西側は庭園に通じる賓客用の門。東側は普段用の入口で牛馬も通り、柱には馬を繋ぐための環(かん)が付いていた。玄関を入ると、土間から上がる踏段(ふみだん)がある。踏段の幅は半間もあり、旅人が腰掛けて足を洗う様子が目に浮かぶ。向かって左側、庭に面した部屋が客間であった。庭の樅ノ木は、二見の漁師が海上で自分の船の位置を知る「山立て」の目印にするほど大きかった。昭和22、3年(1947、8)の落雷と台風で折れ、その後も幹にセメントを詰められて立っていたが、昭和60年(1985)頃ついに倒れた。昔は庭の奥に馬屋があり、参勤交代で弱った明石のお城の馬を肥やすために預かっていたという話もある。
旅籠「明石屋太右衛門」平面図
[エピソード]
*前の宿から早飛脚が知らせに来ると、太右衛門は黒紋付に着替え、大名行列が来るまでに街道を掃き清めて、村境まで迎えに行った。これは、本来、本陣の役割であるが、明石屋は幕末に本陣となった石井槌次郎家の本家筋であることから、後見人としてその役を代わって務めていたと思われる。
*太右衛門は、参勤交代の「供揃え」の人夫頭をしていた。大名も窮迫してくると少人数で旅をするようになる。岡山藩との藩境を越えて姫路のお城の下を通るとき、行列が少ないと通してもらえないので、夢前川から市川までの行列の人夫を集めた。
*明石のお城の定紋入り提灯を持って、岡山まで馬の買い付けに行った。途中で盗賊に襲われた時、提灯を見せ、「明石の石井太右衛門や!」と盗賊を退けた。
*初代および二代目太右衛門は大坂相撲の頭取(注2)をしており、勧進元として相撲の興行を触れ牛車に寄付米を集めて回った。頭取の薫陶を受けた門弟の力士たちが、その遺徳を偲び当家の墓碑とは別に建立した墓碑が当家の詣り墓のある小字「茶屋ケ上」に2015年まで祀られていた。墓碑銘には角力(すもう)の石井から「角石」とあった。
*太右衛門は太っ腹な人で、乞食でも泊めてやる、搗いた米がないときは「他所から三升借りてでも泊めてやる」という人であった。
*明石屋では明石の殿様が来られたら、茶屋の横山家(次項)に嫁いでいた茶華をたしなむ長女のしげを呼び戻して給仕させた。
*太右衛門は客が泊まる時には、前の宿から知らせが来ると、馬に乗って二見に魚を買いに行った。
(注2)大坂相撲の「頭取」は、現在の大相撲の「年寄」のこと。相撲興行を取り仕切るとともに弟子を育てた。