本陣「梅田吉郎兵衛」と茶店(「行程記」)
一方、『魚住村誌』に「立場茶屋」と紹介さている家が魚住町長坂寺にある。古文書等の記録はないが、話を聞くことができた。
伝承者:魚住町長坂寺 横山百合子氏 (昭和8年生まれ)
(ⅰ) 茶屋「横山家」の系譜
横山家は、街道を金ケ崎から西へ長池に向かう長い坂を登り切る手前、大道池のすぐ南にある。長坂寺村と金ケ崎村の境で長坂寺字東長池と表記される時代もあった。宿場の出入り口にあり、馬や駕籠の交代を行う継立場(つぎたてば)、継場(つぎば)としての「立場茶屋」にふさわしい位置である。百合子さんは、「先祖の勘左衛門[弘化元年(1844)~大正5年(1916)]が茶屋をしていた。勘左衛門が山やったところを切り開いて茶屋にして、よく儲かって地主になった。」「明石と加古川の両方からくる駕籠が昼頃にちょうどここに着いて、昼ごはんのあと折り返す駕籠に乗り換えて旅を続けることができ、客にとっても駕籠屋にとってもいい具合の場所だったんでしょうね。」と話された。横山家の茶屋は、明治になってからもしばらくは人力車の中継地点として栄えたが、勘左衛門一代限りであった。
横山家と街道
(ⅱ) 家屋
茶屋「横山家」平面図
昭和51年(1976)に建て替えられるまでの家は本瓦葺きの家屋で、茶屋を営んでいた当時とほとんど変わっていなかった。百合子氏の記憶により平面図を作成した。(図)街道に面して間口が広く(16間)庇が長く張り出していることが特徴で、駕籠がいくつも入る構造である。本屋(ほんや)(主屋)は二構に分かれ、外から入って右側に竈・勝手・板の間・居室・納戸と連なり、左側に六畳・八畳・八畳と続いて廊下がこの半側を包み、部屋は一室ごとには仕切らず、全て建具仕切りである。『日本史小百科 宿場』に記載のある中山道蕨宿の茶屋「菱屋」の構造と非常によく似ており、当時の茶屋の一般的な姿であると思われる。桟瓦葺きの離れは百年ぐらい前に増築したもの。現在、家屋の東側にわずかに土塀の片鱗と、家の裏(南側)に土蔵が残っている。分厚い漆喰造りの土蔵は、阪神・淡路大震災で被災したため、屋根はスレート葺きに変わり、外壁はトタン板で覆われているが、建物は昔のままである。土蔵内には、帳箪笥・一斗釜・明治初期の染付の皿・小鉢などが残っている。味噌樽・五升鍋・お櫃・藁のお櫃入れ・餅箱などもたくさんあったがすでに処分された。
横山家の土塀跡
このほかに、「店で使っていたと思われる自家製の皿・小鉢がたくさんありました」「屋敷つづきの西の畑、北山さんの下あたりに、ちょうど焼き物に適した土があったんでしょうね。金ケ崎の正覚寺の裏(北東)にうちの山があって、そこに窯を築いて焼いていたそうです。勘左衛門が自分で焼いたのではなく、誰かに焼かせたんやと思います。釉をかけて、簡単な絵も描いてありましたけど、あまり品のいいものでもなく、処分しました。袋に何杯も捨てました。」と百合子さん。窯があったという山は金ケ崎の親戚に売られ、転売されて今は住宅地になっている。
横山勘左衛門窯 |
明治の初め頃に藤井鶴蔵(明治20年7月死亡か?)が松陰新田の土を使って焼いていた紫泥焼の窯を継いだものと思われ、日用雑器を焼いて各地に販売していたようである。横山勘左衛門は大正5年(1916)7月30日に73歳で亡くなった。『明石焼陶火』(河井高明1967)や『府県陶器沿革陶工伝統誌』(農商務省編1886)に記載があり、その位置は明治期の地形図により確認できる。 |
[エピソード]
*店が終わってから、板の間の床下に据えた樽に入っているその日の稼ぎを勘定していた。よく儲かって、一文銭に紐を通して勘定するのが大仕事で、これがなければ早よ寝られるのにと思ったほどであった。
*商売繁盛で忙しい女中の下駄の歯は、3日でちびた(すり減った)という。
*どこかの奥方が立ち寄った時、手洗いに行くのに、お付きの者が奥方の着物の裾を持ち上げて、長い縁側を付き従ったと語り草になっている。
*勘左衛門は、夕方早い時間から床几に腰かけ、女中にうちわで扇がせながら一杯飲んでいて、近所の小作に羨ましがられた。
*勘左衛門は草相撲の谷町で、育てていた力士が出入りしていた。門弟が建立した墓碑が金ケ崎の正覚寺墓地にあった。
*横山家の屋号は「ビンボウイケ」。街道を隔てたすぐ北に大道池がある。この池のことを、村人はいつのころからか「ビンボウイケ」と呼んでいた。その謂れは、路銀に困った旅人が大道池で入水することがしばしばあった。明石から検死の役人が来るまで横山家が莚をかけて遺体の面倒をみていたことから、横山家までが「ビンボウイケ」と言われるようになった。また、横山家のすぐ西に昔は松の古木があり、その松でも旅人が首を吊ったという話もある。