(2) 屋号に残る

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 同姓の多い集落において、家々を呼び分けるのに屋号は必要かつ便利であった。現在では屋号をいう人は少なくなったし、由来のわからないものもある。が、残っている屋号から村の様相、歴史を知ることができる。聞き取り調査による西国街道沿いの屋号のある家の分布は図表の通りである。
清水地区 屋号のある家の分布
清水地区 屋号のある家の分布

旧清水村
1 タタミヤ 畳屋 10 コメヤ 精米屋
2 コメヤ 精米屋。10のコメヤと親戚で現在も米屋 11 サカヤ 造り酒屋
3 テラウラ 昔、家が西福寺の裏にあった 12 エドヤ 江戸屋。由緒不詳
4 イチロミサン
(イチロンサン)
室田本家。曾祖母が豆腐屋だった 13 カジヤ 鍛冶屋。近隣の農家の鍬の「サイカケ」など農具の修理。祖父は土山駅常駐の人力車夫だった
5 カマスヤ 藁莚、叺の製造 14 スウヤ 酢屋
6 ヤオヤ
(室田商店)
10年前まで酒・食料品・雑貨の店と鰹節削り業
八百屋の前は鍛冶屋、その前は饅頭屋
15 コウジヤ 麹屋
7 ヨウカンヤ 羊羹屋 16 トウフヤ 豆腐屋
8 カワラヤ 宿屋(別項参照) B アカシヤ 旅籠屋「明石屋太右衛門」(別項参照)
9 タタミヤ 現在も畳屋 17 シッチョミサン 先祖の名前が「七右衛門」。橋本七右衛門は魚住村の村会議員・助役、息子の梅太郎も収入役・助役・村長を務めた
旧浜西村(西長池)
18 ワラジヤ 由緒不詳。近隣の農家が作った草鞋を集めて売っていたのではないか? 23 マスヤ マッシャと呼ぶ飲み屋(別項参照)
19 マンジュサン 由緒不詳。饅頭屋だったか? 24 シバヤ 姓の柴谷をシバヤと呼んだ。昔は鍛冶屋、次は近在の農家を回って籾の臼摺り、その次は乳牛の飼育、搾乳をしていた
A ホンジ 本陣(別項参照) 25 コンヤ 紺屋(染物屋)。近所の田村家(祖母の実家がコンヤ)に紺屋で昔使われていた大きな甕が残る
20 アブラヤ 油屋。10年前まで油・酒・食料品・雑貨の店 26 トコヤ 30年ぐらい前まで散髪屋
21 トウスヤ 「とうす」と呼ぶ籾摺りの土臼(唐臼)を製造 27 ショウダハン 日向堂の地主、大庄屋
22 フウヤ 現在焼き麩を製造。昔は畳屋 28 セイマイ 籾の臼摺りや精米。戦後は米、灯油、プロパンガスの販売
旧長池村(東長池)
29 カワシマ 川島商店。20年前まで酒・たばこ・駄菓子など「何でも屋」 32 フタツイド 先祖が草相撲の力士。四股名が村に二つあった井戸にちなみ「ニツ井戸」
30 イドシチ 敷地内に二つの共同井戸があった。「井戸七」の「七」は先祖の名前「七兵衛」によるもの 33 チョウザ(ダ)ミサン 幕末から明治期に先祖の名前「長左衛門」が二代続いた
31 モトショウ 庄屋をしていた橋本本家。楠山・細目・永井・長谷川姓の各本家も庄屋だったと伝わる C ビンボウイケ 茶屋(別項参照)


紺屋で使われていた甕

 旧清水村には、精米屋、叺(かます)屋、鍛冶屋、酒屋、麹屋その他さまざまな職業の屋号があり、ある程度規模の大きい農村であったことがわかる。旧浜西村(西長池)には、宿場町であったことを偲ばせる「ホンジ」「ワラジヤ」や油屋、紺屋がある。ワラジヤと呼ばれた渡辺本家はすでに転出し詳細は不明であるが、近隣の農家が農閑期や夜なべ仕事で作った草鞋を売っていたのではないか。弘化2年(1845)の「伊勢道中駄賃日記帳」などによると、当時の草鞋の値段は12文から16文で、旅人は一日に1足ないし三日に2足の草鞋を購入している。本陣の近くであり、かなりの数を販売していたと思われる。旧長池村(東長池)には屋号は少なく、どこの村にも一つはある「何でも屋さん」を除くと、村における役割を表す「モトショウ」と、井戸の所在を示す「イドシチ」ぐらいで、小規模の純粋な農村であったことがわかる。橘川真一氏が、『播磨の街道「中国行程記」を歩く』の中で述べている「長池を挟んで村民の住む集落(東長池)と、宿場であった集落(西長池)が分かれていた」ことが、残っている屋号からも窺える。
 
前ページの図表以外にも次の2軒の屋号が記録に残っている。
   清水村 目薬屋 “…御見分相済目薬屋迄御引取被成…”[寛政12年(1800)]
『明石市史資料(近世篇)第六集』p273にあるが、関連する資料などは未確認。
  西長池村 市原屋 “御家伝酢造御伝授成下段難有仕合ニ奉存候…西長池村市原屋治兵衛殿”[天保11年(1840)]
『明石市史資料(近世篇)第六集』p228にあり、「市原屋」という酢造家があったことがわかるが、関連する資料などは未確認。屋号リストにある清水村⑭のスウヤとの関係は不明。