(3) 井戸に残る

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 「長い長池に井戸二つ(三つとも)、何がのうても(なくても)嫁にやるな」と伝わるように、台地上にある長池村は古来水に苦労してきた。灌漑用水はため池に、生活用水は井戸に頼っていた。街道沿いに浜西村(西長池)に二つ、長池村(東長池)に二つの共同井戸があり、良質の水が湧き出ていた。昔は往来する旅人や馬にもおいしい水を供給してきたことであろう。(井戸の位置は、項目(2)屋号のある家の分布図参照)
 a.浜西村のニシノイド(西の井戸)(写真)
 b.浜西村のヒガシノイド(東の井戸)(写真)

a.浜西村の西の井戸


b.浜西村の東の井戸

 a、bは、それぞれ近くの10軒ほどの家が共同で使用、管理していた。その仲間を「イドウチ(井戸内)」とか「イドナカ(井戸仲)」という。分家は家の位置にかかわらず、本家と同じ井戸を使用した。
 毎年お盆8月7日の朝、墓掃除をしたあと、イドナカの大人も子どもも総出で「イドサラエ(井戸浚え)」をした。「直径1mぐらいの桶に入って、暗い井戸底に降りた。蝋燭の火でガスが溜まってないか確認しながら、大きな鏡に太陽光を反射させた明かりで浚えた」と、イドサラエをした最後の世代、田中新八さん(昭和8年生まれ)は語る。桶に付ける太い縄はその日までにみんなで綯(な)う。深さ11~13間(約20m)の井戸の長い縄を街道や大きな家の通り庭を利用して作った。普段使う釣瓶縄は1月15、6日ごろに「ツナウチ」といって、これもみんなで綯う。縄には腐りにくい棕櫚(しゅろ)が良いが、棕櫚は手に入りにくいので、藁で毎年5、6本は作っていた。井戸浚えをしたあとはお供えをし、念仏をあげて水の恵みに感謝した。
 c.長池村のムライド(村井戸)。昔は村中の人が使っていた。
 d.街道沿いにあり、主に旅人や永井家が使用していた。
 c.d.は、二つとも「イドシチ(井戸七)」という屋号の永井家の敷地内にあり、あわせて「フタツイド(二ツ井戸)」と言われていた。敷地北東隅の井戸cは、今は埋められて、車置き場になっている。敷地南東隅、街道沿いにあった井戸dも、昭和39年(1964)永井家新築の折りに埋められた。
 e.埋められた井戸dの石の井戸枠を近所の五百蔵家が譲り受けて、水に苦労した村の歴史を伝えるものとして、碑を建てて大切に保存している。(写真)

e.長池村「二ツ井戸」の碑と井戸枠

 f.茶屋横山家の古井戸。「魚住の太子さん」と親しまれた遍照寺(長坂寺字寺山)へ通じる「魚住太子道」の脇にあった。茶屋の客だけでなく、参詣の人々も喉を潤したことであろう。昭和の初めごろに水の出が悪くなって、斜面の下に新たに井戸を掘った。

魚住太子道と道標

 村井戸は、新田開発の時に造られたと伝えられている。標高が高いため、井戸を掘るには多額の費用を要し、昔は各戸専用の井戸を持つことは難しかった。旧清水村には村井戸はなかった。低地であるため比較的容易に井戸を持つことができたし、街道沿いにため池から流れてくる水路の水を洗い物や風呂水に利用できた。また近くの瀬戸川の川原では、砂利をちょっと手で掘ればきれいな水が湧き出て、飲むこともできた。井戸は良質で豊富な水を供給していたが、1960年頃に近くにキャタピラー三菱の工場ができて以来水の出が悪くなった。ちょうど明石市の水道が敷設され、次第に村井戸は使われなくなった。浜西村では、使わなくなった今でもお盆には井戸の周囲を掃除してお参りをする。またイドナカは、葬式組など集落の助け合いの仲間として残っている。