(4) 小字名に残る

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 調査地の現在の住居表示は、魚住町清水○○番、魚住町長坂寺○○番であるが、年配の方は小字名を使うこともあり、水利地図にも残っている。小字名の由来は、地形・植物・農業・産業によるもの、歴史・姓氏・信仰及び交通に関するもの等あるが、その土地のもとの特徴が消えても地名はなかなか変わらないので、地名が過去の様子を推測する手がかりになることがある。(小字名図はp52)
○「町屋浦」
 本陣所在地の小字名。江戸時代の村請け制社会のなかで、ある地域を「町」として位置付ける要素はさまざまであるが、法制的には地子免除地があるか否かが一つの目安になる。江戸時代の指出帳が残っておらず、はっきりしたことはわからないが、「梅田吉郎兵衛」とされる家が、本陣の指定を受け地子免除、苗字帯刀を許されたため、浜西村の一部が「町」として位置付けられたのではないだろうか。県内たつの市新宮町に「町屋浦」とよく似た「町屋村」という地名がある。この「町屋村」は宿場町ではなく、姫路から鳥取への因幡街道沿いの小さな農村であるが、地名の由来はわかっていない。茨城県真壁町の「町屋村」には陣屋が置かれており、村の中心的役割を果たしていたと思われる。
○「往還東」「往還西」「往還端」
 魚住町に残る文化5年(1808)の「水論図」(次ページ)には、街道に「往還」と書かれている。江戸幕府の主要街道、五街道以外の街道は脇往還、脇街道などと呼ばれた。西国街道は五街道並みの規模をほこる主要な脇往還であった。小字「往還東」「往還西」は、街道と高砂道が交差する区域である。高砂道は、明石の西新町から分岐して沿岸部の集落を通り高砂へ向かう道であり、「往還東」「往還西」は、本街道から播磨名所巡りの道への分岐点として、行き交う旅人で賑わう清水村の中心地であった。「往還東」も長池村の家々が集中し茶屋のあった区域である。

絵図に見る“往還”
文化5年(1808)「水論図」『魚住町清水の暮らし』より

○「茶屋ケ上」
 清水神社の南側、街道を隔てた区域の小字名であり、現在この一角に「清水茶屋ケ上公園」と名付けられた小さな児童公園がある。瀬戸川から街道沿いに東へ向かう坂の途中である。少し下に茶屋があったことを推測させる名称であるが、茶屋の位置は確認できていない。街道沿いの区画は墓地であり、兵庫県の指定文化財である貞和2年(1346)銘の清水の五輪塔がある。南北朝時代の戦乱による死者の供養のために建てられたと伝わる。

清水の五輪塔

○「西宿」
 清水村の西端、小字「坂口」に昔カゴヤという宿屋があったと伝わっている。西宿は坂口の東隣である。「御小休所」である西長池に宿泊が禁じられていたころ、村はずれの「西宿」に必要に応じて宿屋が営まれていたとも考えられる。
○小字名以外の通称「上の丸」「下の丸」
 旧清水村のうち「茶屋ケ上」以西の地域を住民は「本村(ほんむら)」「本清水(ほんしみず)」といい、旧浜西村との境までの東の地域を「上の丸」と呼ぶ。東の住民は、自分たちの地域を「上の丸」、西の地域を「下の丸」と呼ぶ。瀬戸川流域に古くから開けていた村と、新田開発により開かれていった村との違いが呼び方に残っている。