魚住町清水地区には、明石市内最大級の古墳「幣塚古墳」があります。明石市の調査などでは、直径34m、高さ4.25mの円墳で古墳時代中期初頭の四世紀後半から五世紀の初めころに造られたと見られています。「幣塚古墳」は清水川と瀬戸川の合流地点の東北に位置し、瀬戸川左岸の台地上西南の端に造られ、頂頭部に上って西を眺めると印南野台地がひらけ、南は瀬戸川が播磨灘に流れ込む、明石という地の、西端の大きな境目に位置しています。
この“幣塚”には「金鶏伝説」が伝えられています。『明石史資料』(1925刊)などによりますと「幣塚には古くから金の鶏が埋められている、と伝えられてきました。このため、相次ぐ干ばつ、飢饉で困った村人たちは明治19年(1886)に、幣塚を掘り起こしました。しかし、金の鶏は出ませんでした。ただ、朱で塗られた石室からは、勾玉や腐敗した剣が出ただけでした。」出土した遺物は東京国立博物館に保管されていると、伝えられていたために、明石市教育委員会が問い合わせましたが、東京国立博物館には無いとのことでした(どうも、明石原人の腰骨と言い、明石の重要な遺物は都に運ばれて行方不明になる運命なのかもしれません)。金の鶏が埋まっているという伝説は、私も調査で聞いたことがあります。
『あかし昔ばなし』(1983刊)にはこの“金鶏伝説”の埋蔵地を示す歌が記されていて「朝日さし 夕日輝くこの丘に 黄金千杯 朱千杯」とあります。これは柳田國男が『日本の昔話』『日本の伝説』『石神問答』『木思石語』(いずれも『定本柳田國男集』所収)で紹介した「朝日長者伝説」にまつわる歌で、長者の隠した宝の埋蔵場所を示す歌として全国各地に伝わっています。特に兵庫県では、『播磨の伝説』(1975刊)によりますと三木市・旧美嚢郡に多く伝えられている伝説で、清水地区と三木との関係も浮かんできます。柳田の指摘によりますと、この“金鶏伝説”は古墳と深い関係がある伝承で、特に“糠塚”と言われる円墳との関係があるとしています(清水地区の“幣塚”も地域では“糠塚”とも呼ばれていたそうです)。
一方、清水地区には「千軒伝説」も伝えられています。江戸時代の地誌『播磨鑑』には【清水村】の記述の中で「一礎 往古は當村大村ニテ清水千軒ト云傳 民屋數百軒在之也 村境ニ大門在ト云傳 今清水村長池村ノ境ニ大門之跡礎有之」とあり、昔は清水千軒と言われるくらい、大きな村であったと記されています。
この「千軒伝説」と「朝日長者伝説」はセットで伝えられることが多く、朝日長者の盛衰を表す土地伝承として、千軒伝説があります。もう、50年近く前に、滋賀県の琵琶湖の北部・余呉湖のほとりから福井県武生市に通じる北湖街道沿いの滋賀・福井両県境の集落、滋賀県最北端の中河内地区を民俗調査した際に、同じ内容の話を実際に耳にしました。
日々の暮らしに追われる人々にとって、長者伝説、千軒伝説は地域の夢であり、誇りを伝える伝承だと言え、その辛い暮らしからの脱却を金鶏伝説は夢を見させてくれたのかもしれません。金鶏伝説によって、「朝日さし 夕日輝くこの丘に」と歌い継がれた丘を実際に掘った話も各地に伝わっていますが、どの地域でも、何も出なかったと言われています。
“金鶏伝説”“朝日長者伝説”“千軒伝説”を荒唐無稽な庶民の夢物語と一笑に付すのも良いかもしれませんが、広島県福山市の「草戸町千軒遺跡」の伝説と発掘調査(中世に港町として栄え文献にも見出される草戸の町は16世紀初め洪水で流され、千軒伝説として伝えられてきましたが、実際の存在は不明で、無かったのではとまで言われました。しかし、昭和5年(1930)河川改修で川底から発見された町は、中国の青磁が発掘されるなど、その賑わいがうかがえました)を見た時に、人々の言い伝え、伝説をおろそかにはできないな、と思えてなりません。