■野中の清水

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「いにしへの野中の清水ぬるけれど もとの心をしる人ぞくむ」
                     『古今集』よみ人しらず
「むかし見しの中の清水かわらねば 我影をもや思ひ出らん」
                       『山家集』西行法師
「昔見し野中の水をたづね来て さらにも袖をぬらしつるかな」
                        『続古今集』俊成
 
 「野中の清水」に託して昔も今も変わらぬ心を詠じた歌は数え切れず、中世には謡曲や狂言の題材ともなった。『播磨名所巡覧図会』(文化元年1804)によると、この清水は「清水村より廿四、五丁東北、野中村の林の中に三間ほどの琵琶の形をして湧き出」ており、播磨の守護赤松氏が定めた「播州十水」の一つとして賞せられ、一日に米等一升、年十俵を扶助し三人の水守に管理されていたという。『播磨鑑』(宝暦12年1762)には、元禄3年(1690)この清水を普請し、明石藩主松平若狹守直明の酒を造ったとある。
 人々の往来が盛んになると、名水は益々評判を呼ぶ。「尼崎より加古川まで街道絵巻」(長田神社蔵)や『播磨巡覧記』(明和9年1772)、「行程記」等にも紹介されている。『定宿帳』では「長いけ 宿 あかしや太右衛門」の横に「山手廿丁斗北野中清水有」と、「名水近くの宿」をアピールしている。

『播磨名所巡覧図会』野中清水夜啼松

 先の『図会』はまた、この清水畔の松林を描いて、祖父松(じいまつ)、祖母松(ばばまつ)、夜啼松(よなきまつ)という名松があり、夜啼松の枝の皮を燃やして子供に見せると夜泣きが止んだという。『明石名勝古事談』第七本(昭和2年1927)は、「明治維新の際長池村明石屋が松林の拂い下げを受け悉く截抜す只此内にて臼を造る其臼今此村の吉田氏に在り此臼の松は祖父松なり」と後日談を述べている。ここにも「長池村明石屋」が登場する。幕末に長池本陣を買い取った明石屋ならありそうな話ではあるが、当家(石井博家)には伝承されていない。
 この清水は明治以降荒廃し、大正4年(1915)に浚渫されたが再度水も枯れてしまった。もとの位置は不明であるが、昭和53年(1978)、神戸市西区岩岡町野中(明石藩領)に瀬戸川から水を引いて復元され、平成8年(1996)には湧水による復元工事が完成した。

現在の「野中の清水」

 インターネットで「野中の清水」を検索すると、和歌山県田辺市の熊野古道の「野中の清水」がずらり。西行法師は書写山への参詣途上に印南野の“野中”に立ち寄って詠んでいるが、ほかの歌は、都人が通った熊野古道のもの、あるいは他のありふれた“野中”のことかもしれない。しかし、印南野の「野中の清水」がかくも名を馳せたのは、水の乏しいこの地に湧き出た貴重な水であった故ではなかろうか。