明石藩創設および明石城築城400年を迎える記念としまして、市民の方からのご協力により、ご提供いただきました多くの資料の中から、特に明石城やその城下町が描かれた絵図を集めました。これらの絵図には文字で記された記録よりもはるかに多くの情報が表現されていて、これらを比較検討することにより、城や町の変遷を明らかにすることができます。現在私たちが暮らしている明石という町をより深く理解するうえでの重要な資料といえます。
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城下町「明石」の始まり
城下町としての明石の歴史は、元和5年(1619)に小笠原忠政が明石に新城を築いた時に始まる。小笠原忠政は元和3年(1617)に大坂夏の陣における論功行賞によって、信濃国松本から2万石加増で、明石10万石を与えられた。この頃、豊臣氏を滅ぼした徳川氏は幕府の体制作りや国固めに全力を注いでおり、小笠原忠政の転封もその一環として行われたものであった。豊臣氏滅亡後も依然、大きな脅威として存在する西国の大名に対する“押さえ”のため姫路に譜代の本多忠政(家康の孫娘国姫の夫)を伊勢国桑名から5万石加増の15万石で転封させた。また、同時に長男忠刻(家康の孫娘千姫の夫)には部屋住みのまま播磨国内の10万石を与え、次男の政朝を姫路の前衛として龍野5万石に封じ、さらに本多忠政の娘婿であり、徳川家康の外曽孫(家康の孫娘福姫の子)にあたる小笠原忠政を姫路の後衛として明石に配した。このように、幕府は本多一族を播磨におくことによって西国外様大名に対する防衛体制を固めたのである。これにより“明石”は幕府にとって重要な意味を持つ土地となった。
小笠原忠政が入部した頃の明石の城は、明石川河口部西岸の「船上城」であった。ここは、西に広大な「いなみの台地」を控えた低地に立地しているため、西方からの攻撃に対する防衛条件は不利であり、また、元和元年(1615)に発せられた「一国一城令」により、門・塀・殿主などの城としての重要な部分はすでに取り壊されていた。そのため、将軍徳川秀忠は元和4年(1618)、小笠原忠政に対して明石に新城の築城を命じ、費用援助として銀千貫目を与え、築城にあたる奉行人を派遣した。新城の城地割・縄張は姫路城主本多忠政によるもので、「本丸・二の丸・三の丸の石垣・土居・塀の普請」は幕府派遣の奉行が行い、「矢倉・門・塀・家造りの普請」は小笠原忠政が行った。なお、城下の町割については当時、姫路の本多忠刻の客臣であったとされる宮本武蔵が行ったことが享保6年(1721)頃に著された『明石記』に記されている。