明石川以東、武家屋敷や城内の主郭部が表現されている最も古い測量図であり、江戸時代の土地割・土地利用の状況を詳細に伝えている。「明治16年3月縮之」とあり、測量自体はそれ以前に行われたものである。屋敷割ごとに畑地・水田の色分けがされていて、外堀内ではその中央、追手筋を境に東は沼ノ丁を中心に水田が主で、西は畑地が主であるという特徴がよく表われている。土地基盤の高低や水利を知るうえでも貴重な資料である。明治21年(1888)に開通する山陽鉄道の路線がテープ状の薄様紙を貼って表されている。中央付近、追手筋北西角にある正方形の赤色塗り(斜線あり)区画は唯一の官舎地であり、明治12年(1879)に設置された明石区裁判所と考えられる。
播磨国明石郡大明石村全図●明石市立文化博物館蔵(141.5×160cm)
中堀内主郭部の拡大である。堀・土塁・石垣の境界が黒線で表現されているが、修正された跡が残る。他の図と併せて検討し、現在の測量図と比較することにより明石城の詳細な変遷を知る基本となる図である。
播磨国明石郡大明石村全図拡大
右図は城の西北部、明石川・伊川と剛ノ池に囲まれた部分の拡大である。この地区は明治40年頃に摂津紡績の工場が建設されたため、早くに江戸時代の景観が失われた場所であり、明石川・伊川の治水や水利のほか、城下町西北部の防御体制や交通路を考える上で重要な図である。
西北部拡大