12.明石城下武家屋敷図

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 外堀内の武家屋敷配置図であるが「追手丁」より東側は省略されている部分が多い。しかし、山下門・大蔵門・細工門・講武所など重要施設は明確に表現されている。また、桜町(丁)の町名由来である白雲桜があったと伝えられている「五十嵐」家の名前も記されている。画面左下(西南)にある樽屋門の道を挟んで「東郡代所 鈴木」「西郡代所 斎藤」と記入されていて、郡代所の位置を特定することができる貴重な図である。郡代奉行は月交代の勤めであり、鈴木と斎藤(鈴木潤之助干則と斎藤衛俣に該当か)が同時に郡代であった時期は『明石郷土史料』『明石名勝古事談』の記述から、慶応(1865)~明治初めの頃と考えられる。

明石城下武家屋敷図●個人蔵(47.6×80cm)


左下部(樽屋門付近)

 明治19年測量の2万分の1仮製地形図には「東郡代所」に相当する位置に◎記号があり、明治12年に龍谷寺に置かれた仮郡役所を引き継いで郡役所になったことがわかる。その後、町役場→市役所となり、付近に警察署や郵便局などができ、官庁街へと姿を変える。