明治26年(1893)に出版された『明治新撰 播磨名所図絵』(中谷與助著 大阪工新図匠館)に収載されている銅版画で、明治初期の明石城本丸の様子がよくわかる。本丸西の山里郭にあった山里宮を本丸に移し、明治19年(1886)に明石神社として建立した。本丸の東半分に鳥居・灯籠・狛犬・拝殿・幣社・本社などがあり、本丸全域が明石神社の境内になったような感があるが、明治31年(1898)に明石城跡が御料地に編入され宮内省用地となったため、翌年、本丸から東へ約500mの現在地(上ノ丸)に遷座する。左手の櫓(坤櫓)横には小高い丘の上に玉垣が廻る「人丸社」が、端正に描かれている。柿本人麻呂を祀る人丸社(柿本神社)は元々この場所にあったが、元和4年(1618)にこの地に小笠原忠政が明石新城を築城するにあたり、城地の東側(現在の人丸山)に社地を移した。画面下部には明治21年(1888)に開通した山陽鉄道の軌道と煙を吐く機関車や踏切が見える。追手筋から城内への入口である太鼓門の枡形には既に建物がなくなっている。忠実に描写されているように思えるが、画面右奥の三層櫓(艮櫓)は明治14年(1881)に神戸の相生学校の建築用材とするために解体されたという記録があり、矛盾する点もある。
明石神社図●個人蔵(12.5×18cm)