明石型生船の歴史

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 明石の鮮魚仲買商「林兼(はやしかね)」の中部幾次郎は瀬戸内で水揚げされた新鮮な魚を、大阪の市場へいかに早く運ぶかに腐心していました。当時は足の速い船が無く、魚を生きのいいまま遠方へ運ぶことが難しかったからです。鮮魚運搬業の中心は、明石や淡路島の人々でした。天下の台所大阪の安治川河口にあった雑喉場魚市場を基点にして、運搬に要する日数によって、瀬戸内海でとれる魚を「マエ」「イチアケ」「シモ」と呼びならわし、区別しました。大阪湾や明石、淡路周辺でとれる魚は「マエノイオ(前の魚)」と言って特に高値で取引されました。
 

雑魚場時代の安治川河岸、明石型生船とうず高く積まれた魚函がその盛況を物語っています

 中部幾次郎は、工夫と研究を重ね、明治38年(1905年)明石の小杉造船所にて、8馬力の石油発動機を取り付けた12トンの鮮魚運搬船「新生丸」を誕生させました。
 

 
 これにより、明石から大阪の雑喉場魚市場への所要時間は以前の半分に短縮されました。その後も改良を重ね,船首から胴中を和船型、船尾を西洋型にした生船は「明石型」と呼ばれ、農林省制定の標準型に採用されました。瀬戸内海は言うに及ばず、日本海、九州、朝鮮半島まで鮮魚の買い付けに出かけることが出来ました。「林兼」はその後本社を山口県下関に移し、南氷洋捕鯨に進出し、戦後は「大洋漁業」として再出発し、現在の「マルハニチロ」として発展します。
 明石で生まれた「明石型生船」は、性能の良さが評価され西日本に広まりました。淡路市の富島では、鮮魚運搬のために、大正15年に鮮魚発動機船組合が設立されています。昭和11年設立の富島水産株式会社は、実に88隻の明石型生船を保有し、瀬戸内海、九州のみならず朝鮮半島を含め11か所の支社を置いて鮮魚運搬を担いました。
 当時の富島水産株式会社の生船は、船体台帳(昭和13年)から窺い知ることができます。船籍地は、保有船舶88隻のうち29隻が明石であり、大きさは全長約17m、総トン数20トン弱、動力は焼玉機関で50~80馬力でした。発動機製造所は書かれているものが19隻で12隻が明石と確認できました。
 

広島県大崎上島の明石型生船模型と特産品の木造船シール材まきはだ