平成30年12月1日
大村二三男
大村二三男
私は明石の中崎海岸にあり、そのこけら落としに夏目漱石が講演したことで知られる、中崎公会堂のすぐ近くに生まれそこで大きくなった。四軒長屋の二階の窓からいつも明石海峡そして淡路島が望めた。
朝はパンパンという乾いた焼玉エンジンの音で目を覚まし、夜になると淡路の航空灯台が一定間隔で狭い部屋をお昼のように明るく照らした。
遊び場は公会堂の前の浜、近所の遊び仲間と平たい石を投げあい、石が何度ステップしたかを競い合った。眼前にはいつも平たい鍋のような優しい形の淡路島、東には舞子の六角堂、西に目をやれば港の灯台。これが私の幼少期の最も美しい世界である。そして、この見事な光景に欠かすことができないものがフネ。それが機帆船であり、漁船であった。小学校の高学年ごろからか、学校を終えた土曜日などに自転車で海岸沿いに明石港へよく行ったものである。
先ず家を出て西向かう。左に江崎の灯台を見ながら進む。まもなく突き当たりに女郎館(当時「不良」と称されたおニイさんの自慢話から教わった言葉)。見てはならないとは思いつつもちらっと横目で見る。しかし、この廓街の西のつきあたりが灯台の対岸で港に出入りする船を間近に見ることができる格好の場所であった。それで時どきではあるが廓街のメインストリートを通ってそこに行った。廓の玄関先にはきまって独特の雰囲気が感じられるバアさんがすわっていた。時々そのバアさんを囲んでいる襦袢やシミーズ一枚のおネエさんがいたりして、ドキッとさせられた。また、その街の突き当りには汚れたガラス窓に「サック有ります」と墨書された紙が貼りつけられただけの古ぼけた怪しげな家があり、子供心にも「やはり、ここは・・・」と思ったことである。
話をもとに戻す。廓街を横目で見て錦江橋を渡る。
またまた余談であるが、昭和20年代はこの橋の頭頂部は階段になっていた。自転車を担いで渡らねばならぬので不便極まりないものであった。あとで聞いた話だが、これは終戦後進駐軍が駅前からジープで直接女郎館に繰り込むの防ぐために市が考えた苦肉の策であったとか。昭和30年ごろに今のような普通の橋に架け替えられた。
橋のたもとは、機帆船の荷揚げ場になっていたのか、淡路産の瓦、玉ねぎなどの荷役でにぎわっていた。さらに西へ進むと、魚の荷揚げ場だったのだろう、いつも水が懸けられて濡れている岸壁があった。
そこには明らかに機帆船とは異なる船が泊っていた。私らが当時機帆船と呼んだフネは、お腹が大きく鈍重な感じであった。それにひきかえそのフネは船体がキュッとしまっていて、機敏な動きをするようなフネであった。つまり、これが「生船」「明石型生船」であったろう。
当時私は煤で汚れたようで見栄えがせず、重い瓦や土管などを積んでとろとろ走っている機帆船が好きだった。それに比べ、生船はいつも忙しそうに入港してはすぐに出ていく。乗組員も機帆船は夫婦者が多かったようであるが、生船は生きのいい男衆だけだったように思う。何しろ生船は積んでいるものが生きている魚である。荷役中も何かしら緊張感が漂い、話しかけたら怒られそうな生きのいいおニイさんばかりのようであった。