明石型は船体胴体部分が和船構造である。明治末期に明石で造られたが故、明石の名がが冠せられていると聞く。明治末期といえば、機関を乗せた船であれば船体すべてが洋船構造になるのが当然ではなかったであろうか。敢えて和船構造が選ばれた理由は、やはり、明石型が走らねばならぬ過酷な海域のせいなのだろう。あの玄界灘、瀬戸内の複雑な風潮流を知り切った和船構造なくしては生船が存立しかねたのだろうと思う。この和船構造の胴体部分が明石型に心にくいスマートさを加えていることも事実である。
現在海上保安庁が主要港湾・峡水道・航路等の船舶における安全航行に資することを目的に「明石海峡潮流図」を始め11冊の潮流図を作成し発行している。そのうち伊勢湾と東京湾の2図を除いてすべて瀬戸内海の灘・海峡・瀬戸と呼ばれる海域のものなのである。いかに瀬戸内の潮が急で複雑であるかの証左である。
私は7m弱のヨット「敷島」を明石・二見に係留している。ふらっと明石海峡の西口付近に出かけることがある。
林崎沖のセメント磯灯浮標がある海域では冬季北西風と太平洋からやってきた上げ潮流がぶつかり合い複雑な三角波が発生し古来多くの小型船が遭難している。私自身フネの尻が持ち上げられ、ひっくり返されるのではないかという恐怖を感じたことがある。
カンタマ灯浮標付近から海峡西口から流れ出る上げ潮は、潮の色まで異なり、まるで川の流れのように感じるし、二見の沖合で海底が浅くなっている海域では、下げ潮が海面より1m以上の高さになって太平洋に帰っていく。
戦国期村上氏が拠点としていた来島海峡を通峡したときのことだ。潮流図をもとに綿密な航海計画を立て、こわごわ陸岸沿いを通狭した。2~3ノットの連れ潮に乗るのが理想だがそれ以上の速さで流れているところもある、とたんに舵が効きにくくなる。やっとのことで大角鼻という岬をかわし無事通峡を喜んだもつかの間、猛烈な西風、10m/秒はあったろう。5馬力の機関なんてはまったく用を足さない。リーフ(縮帆)してジグザグで進むつもりがフネがガブッて進まない。挙句の果て、プロペラにホンダワラが巻き付いて機関停止。しかし、岬をかわして釣島水道に入るとほとんど風なし。
このように瀬戸内海では狭い海峡・水道では山々に風がさえぎられて風が吹かない。一旦岬をかわして灘と呼ばれる広い海に出ると想像もしない猛烈な風が吹く。また瀬戸内でさらに怖いのが霧である。が、ここでは省略する。