1.「中部幾次郎翁銅像」が語るもの

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兵庫地理学協会 片山俊夫

 明石公園入口に「中部幾次郎翁銅像」はある。中部幾次郎翁銅像は1928年に明石市議会の議決により建立された。この像は戦時中に金属回収で供出されたが、1951年に明石市長を会長とする銅像再建協力会が結成され広く浄財を集め、同所に再建された(当初の像は杖を持っていないが、再建された像は杖を持っている)。
 

〔1928年建立時の銅像〕


〔1951年再建、現在の銅像〕

 では、銅像が建立された1928年当時の人々にとって、中部幾次郎はどのように認識されていたのか。ここでは、銅像除幕式に合わせて中部幾次郎氏壽像建設協賛会が制作した『中部幾次郎氏壽像除幕式記念帖』(以下『除幕式記念帖』と記す)から見てみたい。
 

『中部幾次郎氏 壽像除幕式記念帖』

 『除幕式記念帖』は中部幾次郎略歴・株式会社林兼商店概要、当日の各代表の式辞、そして多くの写真から構成されている。その中で、中部幾次郎略歴には次のように書かれている。
「・・・氏の水産業に於ける功績の偉大なる到底筆紙の悉し得る所にあらず。之より先明治三十八年偶大阪市に於て石油發動機船の河川を輕快に航走するを見て之を海洋に於て鮮魚の運搬船に使用するの極めて有望なるに着眼し、既に其の計畫を整へ航海免許を再三官廳に出願したるも當時我國に於ては前例全くなく、從て斯の如き法規の制定も無しとの理由を以て許可を爲さざりき。且つ氏の親族知己にありても皆口を揃へ其の危險にして無謀なるを難じ強いて之を抑止したるも熱誠湧くが如く氏は之に耳を藉さず、不撓の自信を以て百方其の目的に邁進し一面官廳に向ひ諄々として利害を説き懇願する事切なりき。卽ち官も氏の執心に感じ一ヶ年間其の航行を許可したり。此に於て衆人疑問の環視裡に實に我國最初の石油發動機鮮魚運搬船新生丸の進水を見るに至れり。此の結果は豫期以上良好にして之に依り運搬せし魚類は眞に新鮮潑溂品質優秀たるに依り四方より非常の歡迎を博せり。新生丸の成績を聞知したる同業者相競うて石油發動機船を建造し數年ならずして遠く全國に波及し、爲に斯界空前の進展を促し、今日の盛況を見るに至れり。・・・」
 つまり、1903年の第5回内国勧業博覧会の交通機関として導入された「巡航船」(アメリカ製、電気着火式石油発動機船)に着目し、生魚運搬船に石油発動機を取り付けることにし、石油発動機付生魚運搬船「新生丸」を建造した。そして粘り強い交渉の末、官庁の許可を得て運行した結果、大成功を収めた。その結果、石油発動機付生魚運搬船は同業者に広まり、鮮魚運搬業・水産業が大きく発展することになった、ということである。さらに「朝鮮」・北洋海域への進出、造船所の設立、冷蔵船の建造、工船による缶詰製造、漁業法の改良など幅広く水産業の発展に寄与したこと、教育・勧業など公益のために多大の寄付をしたことが記されている。そして最後に「明石市會は氏が明石市の出身にして國家的事業に成功し、國家に功勞あるのみならず、産業の公益教育の振興に於ても功績多大なりと認め今次同市公園に壽像を建設するの議を滿場一致を以て議決し、之又氏の德を不朽に傳へ範を後人に示さんとす。卽ち工成りて昭和三年十一月六日官民斉しく相集り盛大なる除幕の式を擧行せらる、實に氏の如きは立志傳中有數の人と謂ふべし。」と締めくくられる。「中部幾次郎翁銅像」は、明石市民や関係者の熱意とともに幾次郎の水産業発展への貢献の大きさを伝えている。