2.石油発動機付生魚運搬船「新生丸」

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 1905年に建造された石油発動機付生魚運搬船はどのような船だったのだろうか。写真は見つかっていないが、『大洋漁業80年史』(1960年)に「第一新生丸(初代)」と題した絵画が掲載されている。
 

〔「第一新生丸(初代)」〕

「中部流石筆」とあり、1960年当時の社長、中部謙吉(流石は雅号)よる絵画であることがわかる。絵画の説明(はさまれている別紙記載)に「鮮魚運搬船・和船造 L×B=14m×3m 電気着火式石油発動機付8馬力速力6浬帆走・生簀の設備附属箱積数・中箱160箱製造・明治38年製造者・明石小杉造船所」(筆者注:Lは長さ、Bは幅)とあり、この絵は1905年建造の「新生丸」であることがわかる。しかし、画題に「第一新生丸(初代)」と、「第一」と「(初代)」を併記しているのはなぜだろう。それは、同船は不登簿船であり公式には記録されていないということで、のちに改良された「新生丸」を「第一新生丸」とし、区別するために「第一新生丸(初代)」という表記になったと推測される。『大洋漁業80年史』に掲載されている写真「第一新生丸」の説明に「第1新生丸、初代第1新生丸は明治38年に日本最初の石油発動機付鮮魚運搬船として誕生したが、この新生丸は大正元年、電気着火から焼玉式の有水軽油に改良した25馬力の機関2台を据え付けて、あらたに建造したものである」との記述とも合致する。ただ、この写真の「第一新生丸」が建造された1912年(大正元年)に先立つ1909年(明治42年)に「・・明治42年にはすでに新生丸1隻では間に合わなくなったので、第2新生丸を建造・・・これは、エンジンを最初の電気着火から焼玉有水式軽油機関に改良し、船体も船尾を西洋型・胴中を和船型に改良したもので「明石型」と呼ばれ、農商務省(原文は農林省、筆者訂正)制定の標準型に採用されたものである」(『大洋漁業80年史』p230)との記述がある。
 

〔「第一新生丸」(『大洋漁業80年史』)〕

1905年建造の「新生丸」は1909年に同業者の藤友組に売却されており、ほぼ同時に建造したこの「第2新生丸」を単に「新生丸」または「第一新生丸」と名付けた可能性もある。『除幕式記念帖』に掲載されている「第一新生丸」もこれが『大洋漁業80年史』掲載の「第一新生丸」と同船であるかどうかはわからない。
 

〔「第一新生丸」(『壽像除幕式記念帖』)〕

とにかく、1909年以降の「新生丸」の「第一」「第二」等の名称をめぐっては、エンジンの数・馬力なども含めて不明な点が多々ある。名称をめぐっての混乱はあるが、重要なのは中部幾次郎が1905年に石油発動機付生魚運搬船「新生丸」を建造し、その後も改良を進め、1909年~1912年頃に農商務省制定の標準型に採用される「明石型」生魚運搬船を建造したことにある。これにより大阪雑喉場への輸送時間の大幅短縮と積載量の大幅な増量が可能となり、石油発動機付生魚運搬船が急速に普及することになった。「中部幾次郎翁銅像」建立の機運を高めることになった藍綬褒章下賜の理由として「・・・鮮魚運搬船ノ改良ニ致シ苦心研鑽遂ニ船型ヲ改メテ石油発動機ヲ応用シテ好成績ヲ挙ゲ今ヤ同業者ニシテ本機ヲ応用セザルモノナキノ盛況ヲ呈スルニ至ル其他鯖漁業ノ改善冷蔵庫ノ経営等水産業ノ発達ニ貢献・・・(昭和3年9月21日賞勲局総裁天岡直嘉)」(大佛次郎編著『中部幾次郎』中部幾次郎翁伝記編纂委員会(1958年)より)と書かれている。「鮮魚運搬船ノ改良」「船型ヲ改メ」(「明石型」と考えられる)が高く評価されていることを示している。
 以上、中部幾次郎にとって、また水産業界全体にとって、石油発動機付生魚運搬船がいかに重要な存在であったがよくわかる。では、石油発動機付生魚運搬船「新生丸」から始まる林兼商店の発展はどのように展開していったかを整理しておきたい。