1866年、明石に生まれた中部幾次郎は家業の鮮魚仲買運搬業「林兼商店」(以下、林兼)を継ぐ。林兼は明石近海から五島列島の鮮魚を買付け、大阪雑喉場へ運ぶ。林兼が大きく発展する契機となったのが、第5回内国勧業博覧会(大阪)であった。彼はそこで石油発動機付の巡航船と大型冷蔵庫に注目し、機を見て事業化を図る。まず、1905年に石油発動機付生魚運搬船「新生丸」を建造する。それまでは帆と櫓による押し送り船であった。この時に資金を提供したのが大阪雑喉場問屋「綿末商店」の膳(かしわで)末次郎であった。1904年、幾次郎は下関に本拠を移す。朝鮮漁場進出のためである。朝鮮漁場と日本の市場を石油発動機付鮮魚運搬船で結ぶ。さらに、1922年には小型冷蔵運搬船を投入、1924年には彦島に大型冷蔵庫を建設している。
この時期の歴史的背景には、明治以降の工業発展に伴う大都市の人口増加と水産物市場の拡大、漁船の動力化・外国技術の導入による漁場の拡大、漁業人口の増加と漁場紛争の多発などによる瀬戸内海漁民の海外進出圧力の高まりがあった。そこに、日清・日露戦争による朝鮮半島海域への日本の権益拡大が重なり、小規模漁民の朝鮮「通漁」「移住」が盛んとなった。そして、その朝鮮漁場と日本の大市場を結ぶ鮮魚運搬業として、林兼と山神組が台頭する。いずれも雑喉場生魚問屋の強力な経済力を背景にしており、林兼は綿末商店(膳末次郎)と、山神組は神平商店(鷺池平九郎)と組んだ。
1915年、林兼は朝鮮漁業本部を方魚津(現:韓国蔚山市)におき、幾次郎自身も移住する。翌年、危機が襲う。サバの大凶漁とコレラの流行。山神組をはじめ、多くの漁業者・運搬業者が朝鮮漁場からの撤退を余儀なくされた。そんな中、年末まで踏みとどまった林兼は時期遅れのサバの大豊漁とコレラの鎮静化により一気に他の業者を引き離す。こうして、朝鮮漁場での基盤を確固たるものにした。さらに、この頃から、漁業の直営にも乗り出すことになる。1924年、幾次郎は林兼を個人経営から株式会社組織にし、朝鮮漁場は有力な部下に任せ、1925年には下関に居を移す。それは、新たな事業の拡大をめざしてのことであった。1928年、藍綬褒章の受賞を機に、明石公園に「中部幾次郎翁銅像」が建立された。幾次郎の水産業への貢献、明石への貢献が広く認められた証といえよう。