〔中部幾次郎氏功績碑前での記念写真、前列中央に幾次郎(方魚津在住の日本人撮影)〕
〔防波堤築造記念碑〕
明石公園入口の「中部幾次郎翁銅像」が建立されたのと同じ年である。1929年末時点で、方魚津住民の約4割日本人で朝鮮東南岸最大の漁港として栄えていた。まさに林兼の城下町であった。現在でも、所々に旧日本家屋が残っている。さて、二つ碑はどうなったのか?「中部幾次郎氏功績碑」は戦後取り壊されてなくなっていたが、小学校の改築工事中に石碑の一部が出土し、倉庫におかれている。また、「防波堤築造記念碑」は倒され防波堤下に放置されていたが、2009年に防波堤上に再設置され、歴史の証として保存されている。碑の背面には、「防波堤期成同盟会長中部幾次郎」の字もかすかに読み取れる。さらに、方魚津鉄工造船(株)には貴重な戦前の方魚津の様子を描いた絵画があった。そこには、「防波堤築造記念碑」やはの倉庫が描かれていた(現在所在不明)。
羅老島(現:韓国全羅南道高興郡)にも多くの旧日本家屋と林兼の建物が残っている。中でも、林兼の社宅、大型の製氷冷蔵工場、商事部の建物・重油タンク(いずれも現在は使用されていない)が残されている。林兼は進出した各地に商事部を設け、漁業者にサービスすることを目的とし、漁業用資材から日用雑貨までを特別価格で販売していた。発動機船への重油・軽油の提供もしていたのである。1929年には羅老島電気(株)を設立し、住民に電気を供給していた。現在の小さな漁港からは想像もつかない繁栄ぶりだった。
〔羅老島の旧林兼建造物、左上:重油タンク、正面:商事部、商事部の屋根の向こうに製氷冷凍工場の一部〕