朝鮮の事業で会社の基盤を築いた林兼は北洋漁業を目指す。1927年、初のカニ工船出漁で北洋漁業に進出する。また、1933年に母船式サケ・マス漁業開始。しかし、北洋漁業には政治的な壁があり、前者は1932年に、後者は1935年に実質上、閉め出される。このことが、南氷洋捕鯨進出への強い動機になる。1934~35年の日本捕鯨(株)(のち日本水産(株))の南氷洋捕鯨成功も大きな刺激であった。中部謙吉が東京に常駐し、国産捕鯨母船建造の交渉などを行う。この急な造船計画は海軍の輸送力アップの思惑と一致し、三菱商事・大手銀行の支援を受け実現することになる。1936年に林兼は大洋捕鯨(株)を設立、同年8月に初の国産捕鯨母船=日新丸が川崎造船所で完成、10月に神戸港から初の南氷洋捕鯨に出港する。しかし船団長である志野徳助が急逝、中部利三郎が急遽指揮を執ることになる。翌年には第二日新丸も完成。規模を拡大しながら、1936/37年漁期から5漁期にわたり出漁する。しかし、戦況の悪化により1940/41年漁期を最後に中止。母船・捕鯨船は軍に徴用され、そのほとんどを失うことになる。母船の建造から鯨油販売による外貨の獲得、輸送船としての徴用と、日本の捕鯨は戦争と深く絡み合いながら展開していった。
戦後の1945年12月、社名を大洋漁業(株)とする。その翌年5月に中部幾次郎は80年の生涯を閉じた。同年10月、大洋漁業(株)は戦後第1次の南氷洋捕鯨に出漁する。大洋漁業(株)の戦後からの復興は南氷洋捕鯨から始まった。日本の水産業界のなかで日本水産・日魯漁業は初めから漁業直営で大資本であったが、林兼(のちの大洋漁業(株))は流通を基盤にしながら漁業直営に、個人経営から大資本に、という特徴がある。中部幾次郎は常に新たな挑戦を続け、戦後の大洋漁業(株)(現・マルハニチロ(株))の基盤を築き上げたのである。そのすべての始まりは石油発動機付生魚運搬船「新生丸」であった。