木下吉左衛門は1871(明治4)年8月22日に松蔭伊三吉の長男として明石で生まれた。伊三吉は明石藩家老黒田家「同居」松蔭屋伊三吉であり職業は「質屋渡世」兼「明石玉職業」であった(※3)。実家の松蔭屋(明石市西本町)(※4)は婦人の簪飾りや掛軸の風鎮、念珠、喫煙具などに使われた模造珊瑚である明石玉の製造販売を行っていた。吉左衛門少年はセールスが得意で13歳の頃には明石名産の「明石玉」を背負って新潟など各地に明石玉を卸に行っていた。なお明石玉については明石玉研究会の報告書『明石玉ものがたり』が発行されているのでここでは触れない。
やがて伯父筋にあたる大久保町松蔭新田の庄屋木下家の養子に迎えられ木下吉左衛門を襲名した。しかし吉左衛門青年は農業に飽き足らず、農作物の米や麦を加工する方に興味と熱意を見せた。1891(明治24)年、20歳の頃、精米・製麺業を始め製粉業にも手を染めたが失敗。止む無く姉婿である山本鼎一の山本米店(明石市西本町)(※5)の手伝いをしていた。その山本米店が精米所用の発動機を大阪谷町の牧田鉄工所から購入したことが吉左衛門青年と発動機を結びつける縁となった。1901(明治34)年、牧田鉄工所に客分として住み込み、番頭役を果たすとともに、明石地方の精米所、酒造場などに対する発動機の販売から据付、運転まで一手に担当することとなり、発動機の運転技術を習得していったのであった。