生魚運搬船に明石型と冠されて表現されるようになったのがいつ頃からかは不明であるが、『日本漁船史』に掲載された杉本良樹大洋漁業(株)船舶事業部副部長の回顧録‘日本初の発動機船、新生丸の誕生’によると「新生丸は明治40年には朝鮮慶尚南道西南のサラン島でハモを買い入れ生簀で大阪へ運搬を行い、帆船では三日間かかった下関までの航行時間を25,6時間に短縮するという発動機船による日鮮間鮮魚運搬業の始まりとなった。林兼商店はその事業の拡張と共に明治42年には第二新生丸(25トン)を金指造船で建造した。この船はエンジンを最初の電気着火から焼玉有水式軽油機関に改良した船である。船体は金指造船の考案による船体の船首と船尾を西洋型、中央部をフレームなしの和船型に改良したもので、「明石型」と呼ばれ、農林省制定の標準型に採用された」とある(※9)。
また小林茂夫(元大洋漁業手繰船船長・漁労長)編著『木造漁船民俗史話』第二部沖合・遠洋漁船編によると「・・・第二新生丸(25トン)を新造した。この新造船の成績が良いことから、同型の鮮魚運搬船が多く建造されるようになり、中部の出身地明石の地名から「明石型」と呼ばれ、後には農林省制定の標準型に採用されている」とある(※10)。
いつ頃から「明石型」と呼称されるようになったかは今後のさらなる調査結果を待ちたい。