5.発展する木下鐵工所

23 ~ 24 / 306ページ
 1910(明治43)年3月、木下鐵工所は名古屋市で開かれた第10回関西府県連合共進会に石油発動機を出品し二等賞銀牌を受賞した。1910(明治43)10月には遠くロンドンで開かれた日英博覧会に石油発動機模型を出品し二等名誉銀牌を受賞した(※11)。1916(大正5)年には帝国海事協会と大日本水産会の共催で開かれた海事水産博覧会に出品し銅牌を受賞した。焼玉エンジン(セミ・ディーゼル)の時代になっても1926(大正15)年4月には、姫路商業会議所主催の全国産業博覧会に無注水式セミ・ディーゼル式舶用発動機を出品し名誉大賞を受賞した。1927(昭和2)年3月、大阪国産振興会主催の国産原動機博覧会では近藤記念海事財団より大金牌を受賞するなど技術を進歩させ焼玉の木下の名前を拡げていった。木下鐵工所の技術を支えたのは大阪高等工業学校舶用機関科(現:大阪大学工学部)卒業の矢内敬之助取締役内燃機部長であった。矢内敬之助はわが国焼玉エンジン界の権威者で後に社団法人日本舶用発動機会の専務理事を務めたほどの人物であった。
 1912(大正1)年10月、内燃機工場および鋳造工場を旧錦江町(現在、明石商工会館‘らぽす’が建っている場所)に移した。工場規模はさらに大きくなり設備も機械も近代化し充実した。1917(大正6)年5月には鋳造工場を分離し、旧追手町に新設し分工場とした(※12)。1938(昭和8)年2月から6月にかけては、不況のさなかにも関わらず大観尋常高等小学校(現:大観小学校)東側の旧上水町1337番地(現:大明石町2丁目)へと全工場の移転を敢行したのであった(※13)。1935(昭和10)年12月、個人経営から株式会社へと改組、株式会社木下鐵工所が誕生した。初代社長には木下吉左衛門が就任した。資本金200万円、工場敷地2200坪、建屋敷地1360坪(事務所、設計室、機械工場、組立場、仕上場、試運転工場、木型工場、鋳物工場、キュポラ上屋、合金工場、焼入場、火造場、倉庫)、役員8人、従業員302人と当時としては大きな規模の工場であった。1943(昭和18)年7月20日、木下吉左衛門が死去(享年71歳)、長男の木下郁二専務取締役が2代目木下吉左衛門を襲名し新社長に就任した。
 1965(昭和40)年11月に阪神内燃機工業株式会社(神戸市)と合併し木下鐵工所の名前は消えることとなった。