1941年(昭和16年)発行の「漁船発動機年鑑」によれば、大小を問わず全国の発動機製造会社は加盟会社119社有った。ディーゼル機関は未だ黎明期であり、大手の数社しか生産しておらず、そのほとんどが小型の焼玉機関の製造業者であった。兵庫県内燃機工業組合の加盟会社39社(全国比33%)を見ると神戸市19社(16%)、明石市11社(9%)、淡路などのその他地区で9社(8%)であった。
全国的にも漁業が盛んな都道府県において、内燃機工業組合が組織され津々浦々に製造業者が存在した。その背景には、漁船建造時の国からの奨励金制度があった。これは、発動機1馬力当りに一定額が付与されるが、これを受ける発動機製造工場の資格があり設備、技術者の資格、経験等が要求された。また、漁業者の供給上、修繕上の不便が起きないように、標準化と外国製部品を輸入しないように国産化が図られた。漁船用発動機に限ると99%まで国産化が進んだ。
また、各地で開催された共進会で無水式ボリンダー型の優位性が認められ、結果としてボリンダー型に統一される結果となった。将に実用化に入ろうとした1923年(大正12年)に関東大震災が発生した。関東の発動機製造所(池貝鐵工所、日本鐵工所、新潟鐵工所等)の被害は少なかったが、復興には1カ年以上を要したのである。この間、関西では無水式焼玉機関の製造実績が多くなり、材料調達面、技術者気質、人件費の安さなども重なって関西地区が活気づく反面、関東地区の発動機製造所は振るわなくなった。