明治政府は維新直後から西洋型船舶を奨励するが、日本の造船所はそれを直ちに建造する技術を持ち合わせていなかった。1885年には西洋型船舶検査規則を制定し、500石以上の和船建造を禁止して西洋形への移行促進を図ったが、西洋形の船舶建造数は伸びず逆に減少していった。1896年船舶検査法を制定し150石以上の和船も検査の対象とした。1897年の西洋形は171隻であったのが1900年には3,309隻と一気に増加した。この要因は船税、海技免状、船舶検査を免れようと和船として建造していた船舶が船舶検査法で登録が必要になった為である。この増加について「日本帝国統計年鑑」は「頓数船ノ著シク増加セシハ船舶検査法施行ノ結果、従来ノ石数船ノ取扱イヲ受ケタル合ノ子船ヲ漸次頓数船ニ編入セシニ由ル。」と述べている。
この様な背景の中、1906年に前述の発動機付漁船冨士丸が出現するが、西洋型木造帆船の船型である。この船の漁労実績が良好で全国の漁船の動力化が一斉に始まったが、機関が重く動揺が激しいとの漁師の評価から合の子船(和洋折衷型)が導入された。造船も手掛けていた1907年頃の(株)木下鐵工所のカタログには「合ノ子船」という表現で建造船舶が紹介してある。
一方、1906年建造の中部幾次郎の第一新生丸は船首にミヨシがあり和船型に似ている。船尾形状は曲線で西洋型との合の子船の様子が伺える。この第一新生丸を運航していた中部幾次郎は、船尾を西洋形、中央部を和船型にしたアイデアで大阪の金指造船所で建造し、農林省制定の標準型となって「明石型」と呼ばれた。