3)まとめ

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 明治以降、木造大型船の西洋化の流れの中で、和洋折衷型の「合の子船」と呼ばれる船型が生まれた。その背景には、伝統的な和船建造技術は全国各地に存在し、それぞれの目的や用途などの環境の中で発達していたが、完全な西洋式木造船を建造する技術は持ち合わせていなかったと言える。
 漁船においては、漁業不振の中で沿岸から沖合・遠洋へ漁場を求めて和船を改良大型化して行ったが、大量の遭難事故が全国で続出した。また、外国漁船による日本近海での捕鯨や海獣捕獲もあり、明治政府は漁業の近代化政策を打出して、全国の府県に水産試験場を設立し指導船建造を奨励した。
 この時期に建造された指導船は完全な西洋式帆船で、伊勢大湊の市川造船所が先陣を切っていた。数年後、発動機が船舶に据付けられるようになり前述の冨士丸以降全国に発動機船が広まっていった。船型については無動力船時代から建造しやすく船価も安い、和洋折衷の「合の子船」が注目され発動機付に改造や新造においてもその船尾形状は都合が良かったのではないかと思われる。中部幾次郎の第一新生丸も合の子船と言える。中部幾次郎はこの後、十数隻の生船を建造するが、「合の子船」からも一歩進化し独自のアイデアを盛り込んで「明石型」と呼ばれ、農林省制定の標準船型となった。
 大正後期以降、漁船も大型化が進んでいくが、100GTを超えると強度的な問題から合の子船では対応できず、西洋式肋骨構造の採用が不可欠で、橋本徳寿らの木造船講習会(船匠講習会)で広まった技術がそこに生かされているものである。