昭和20年(1945年)8月15日日本は敗戦した。富島水産(株)の所有生船88隻中ほとんどは軍に徴用されたが、かろうじて老朽船ばかり6隻が残存した。
昭和21年(1946年)2月17日より新円切替、3月3日戦前の価格統制令廃止、物価統制令が公布され闇市が横行した。極度の物資・食料不足の中、船員・燃料・食料を調達して五島列島のイワシ運搬(氷藏)に乗り出した。
昭和23年(1948年)5月に「高級魚」の公定価格制が停止となり、同年8月には高級魚の統制が解除になった。この頃より瀬戸内海の漁獲も増えて各業者が新船を建造した。
ヤマク水産を大日水産(株)に昭和27年(1952年)4月14日付で法人化した。夏は、活魚を冬は一部の船を五島の巻き網船の漁獲物の運搬に従事した。
昭和30年代後半になると漁獲量も減り経営困難な業者は廃業し始めた。昭和36年(1961年)「獲る漁業から作る漁業へ」の国策的呼びかけにいち早く応えて、将来衰退傾向を心配される近海魚の資源確保の一環としての養殖事業を、大日水産(株)と大阪魚市場(株)との共同で淡路養魚(株)を設立し、淡路島由良湾ではまちの養殖を開始した。
生船は、はまちの稚魚の移動及び成魚の販売、餌用冷凍魚の運搬にも携わった。
周辺に木造船を修理する造船所がなくなり、昭和38年(1963年)大日水産(株)富島造船所を淡路島富島に開設した。
日本が高度経済成長を続け、道路網の整備が進み、人口も都市に集まる中、淡路島でも淡路フェリーボート(株)の設立など待遇の良い企業へ流出し、船員不足が顕著になってきた。