古くから和歌にも詠まれ、景勝地で知られる和歌浦には、昭和45年(1970年)頃まで1月下旬から3月上旬まで毎日のように行っていた。この時期は瀬戸内海の海水温度が下がるので、まだ少し海水温度の高い和歌浦漁港より水揚げした。宮崎県日向を出港した生船は足摺岬沖・室戸岬沖・蒲生田岬沖を並行して紀伊水道に入る四国航路を航行し、0時前頃に和歌浦漁港に入港する。
陸方は、自社1台、運送会社に依頼のトラック2~3台で和歌浦に0時前に到着すべく氷を積んで神戸を8~9時頃出発した。荷揚げは遅くとも2時頃には済ませ、出発しないとセリ市に間に合わない。大阪・神戸は5時10分より、京都は30分遅くセリが始まる。市場の入荷状況を見て2日売り(ふつかうり)する場合もある、その時は荷揚げ後、港外の適当な場所で投錨し、翌日まで待機した。
昭和45年(1970年)頃以降に入ると垂水漁港が整備され、生簀を置くようになり、全船垂水漁港に入港した。
大日水産(株)造船所は、漁業の近代化の一環としての構造改善事業を利用しての活魚運搬船の建造を多く受注した。
又船舶の大型化を進め、装備の近代化も加速させた。
昭和54年(1979年)進水の第八大丸、昭和55年(1980年)進水の第拾壱盛漁丸、昭和56年(1981年)進水の第八拾壱住吉丸は養殖漁場を漁撈場と見なされないとの解釈から貨物船の扱いを受けてきたのを、漁撈場と見なすと解釈が変更されたため第一種漁船として建造された。これにより、今迄無保険状態から漁船保険の加入が認められた。
第八拾壱住吉丸は、昭和57年度第2回全国豊かな海づくり大会HI156~HI172(7月27日於;兵庫県香住漁港)にて上皇、上皇后(当時、皇太子殿下、同妃殿下)の稚魚放流行事のお召船の栄誉を賜った。
昭和50年(1975年)頃より、養殖まだいの稚魚が人口孵化技術の確立により大量生産が可能になった。その結果、昭和50年代半ば頃より養殖まだいの生産量は急速に増加した。
高速道路の充実、一般道路の整備に加え活魚トラックの整備が進み、養殖まだいの運搬はトラック輸送へと変化してきた。表1は富島主要生船の廃止年の一覧表で参考となる。
廃止年次 | 船名 | 経営者 | |
昭和35年 | 1960 | 住吉丸 | 倉本繁市 |
昭和36年 | 1961 | 住吉丸 | 濱口実右衛門 |
昭和40年 | 1965 | 冨栄丸 | 宗和春太郎 |
昭和43年 | 1968 | 住吉丸 | 日野嘉右衛門 |
昭和45年 | 1970 | 住吉丸 | 田中常次 |
昭和46年 | 1971 | 住吉丸 | 日野逸夫 |
平成4年 | 1992 | 住吉丸 | 大日水産(株) |
※平成4年でゼロ隻 | |||
大日水産(株)の最後の生船(活魚運搬船)第八拾壹住吉丸も船員の高齢化等の諸事情で、平成4年(1992年)運航をとりやめた。
大分県蒲江港の(有)戸高水産所属で昭和55年(1980年)進水の第拾壱盛漁丸は最後の大型木造生船(活魚運搬船)として現役である。