生船の活動範囲

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 昭和36年(1961年)の養殖漁業進出以前は、夏場は荷物も多く(蛸・ハモ)配船にあまり困らなかったが、冬場の活魚が少なく何隻か五島・生月の巻き網船の漁獲物(アジ・サバ・イワシ)の運搬に従事した。又、宮城県女川までサンマを積みに行った。その帰路九十九里浜で座礁した事故もあった。その後は養殖漁業に関連する業務、ハマチ・タイ等の稚魚の運搬、成魚の販売、飼料(イカナゴ・イワシ)の運搬があった。
 昭和40年代に入ると、従来からの活魚運搬船業は瀬戸内海では愛媛県・大分県、外海では壱岐・対馬・五島・天草周辺及び宮崎延岡周辺での仕入れ積出しであった。
 なお、山口県柳井市平郡島での活動については『東和町誌別編島の生活誌くらし・交流・環境807頁』2004.8.31に「昭和27、28年ころからは、(周防大島油宇)富島のタコ専門のイケフネ(活魚運搬船)住吉丸が毎日のようにきた。平郡島から大阪に運ぶ途中に立ち寄った。一日一トンの水揚げがあり、一トンのタコが買えるのは、大阪に運んだ富島の船だけだった。」「昭和38年に東和丸ができて住吉丸はこなくなった。」『同840頁』「山口県柳井市平郡島は瀬戸内海でタコの漁獲量が一番多かった。淡路島の田中常次郎氏が駐在してタコをイケフネで運んだ。続いて淡路島の日野家もくるようになる。日野家が生簀と駐在員をおいて一手にあつかった。日野家の先代は『平郡に足を向けて寝るな』といっていた。次に富島の活魚運搬業の中島家(富島には中島家は聞いたことがない。岩屋では中島姓多いのでそちらでは)が来るようになった。昭和40年代に富島の鮮魚運搬船が来なくなる。平郡島の蛸は日野家の紹介で淡路島大日水産と山口県漁連で入札する。大日水産がいつも落札した。」などの記載が見られ、昭和20年代後半から平郡島を活動拠点とした蛸の取引が活発に行われていたことがわかる。
 平郡島への蛸の買い付けは最初に田中常が行き、濱口実右衛門と日野逸夫が引き継いでいった。日野逸夫は昭和33~35年頃、興居島(ごごしま)横の釣島(つるしま)と平郡に蛸を買いつけに行っていた。平郡は主な蛸の産地であり一番の商材で目方が増えることもあり一番儲かっていた。瀬戸内海は蛸の宝庫で産地は沢山存在した。しかし早い者勝ちで買い漁られており、大日水産はその中でも後発組となっていた。
 淡路富島港から平郡島までは、朝から出て夜中か次の日の朝でほぼ1日かかるのではないかと思う。例えば、昭和52年第6住吉丸の航海日誌を見ると、富島を8時出港し山口県大島郡周防大島町の沖家室島沖には22時35分着という記録が残っている。また資料に毎日、平群島に住吉丸が寄港したとあるが、おそらく同じ人物が何隻も同名の船を毎日送り込んでいたのだと思われる。(各家は複数の船を持っており、その中で号数を割り振っていたため同名の船名である住吉丸が複数存在する。)日野賀生氏も一度、平郡島を訪れたことがあるが活動拠点の痕跡は何もなかった。